昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

ヤクルトのエースとして活躍した松岡弘氏。昭和53年には大車輪の活躍でヤクルトの初優勝&日本一に貢献して沢村賞を受賞、昭和48年には自己最多の21勝を挙げるなど、速球を武器に通算191の勝ち星を積み上げた。ヤクルト史上最高の右腕に德光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

少年時代は水泳一筋

徳光:
そもそも野球を始めたのは。

松岡:
僕が野球ってなったのは中学ぐらいかな。ほんとは野球をしたくはなかった。
水泳がめちゃくちゃ好きで、小学校のときも中学のときも市の大会に出て、ある程度、記録を出してた。単独でやるスポーツが大好きだったの。
野球って、みんなでギャーギャー騒ぎながらやってるなっていう感覚があったんですよ。

徳光:
それは意外ですね。それで水泳を続けようとは思わなかったんですか。

松岡:
7つちょっと年上の兄貴が野球をやってて、高校までずっと野球部。芽が出なくて、肩を落とした後ろ姿ばっかり見てた。そのときに「野球をやってみないか」っていう言葉が後ろから聞こえてきたんですよ。

徳光:
誰が言ったんですか。

松岡:
中学1年のときの担任の先生だと思うんですよ。野球部の監督だったらしくて。

徳光:
すると、野球に開眼したのは中学2年生か3年生なんですか。

松岡:
いいチームだったんですけど、野球が全然下手でしたね(笑)。

高校では1年上に星野氏が

徳光:
高校は倉敷商業。野球が強いから受験されたわけでしょう。

松岡:
全然です。兄貴がその学校を卒業してたから、何とか兄貴を追い越したいなと思って。負けず嫌いなところがあったんでしょうね。それで入ったんですよ。
そしたら1年先輩に、変な人がいたんですよ(笑)。

徳光:
倉敷商ってことは、もしかすると、“あの人”ですか。

松岡:
“あの人”です。

徳光:
“星の王子”。

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松岡:
その頃からすごく有名だったんです。もう有名で有名で…、岡山県どころじゃない。

徳光:
星野(仙一)さんはそんなに有名な高校球児だったんですか。

松岡:
その有名が、ちょっと変な有名なんです。野球で有名というよりも、あのまんまなんですよ(笑)。

徳光:
なるほど、あのラインですか(笑)。

松岡:
それで、倉敷商の野球部の監督、部長も困り果ててて。それで有名になっちゃったんですよね。 でも、人一倍練習してましたね。

徳光:
やっぱり星野さんはそうなんですね。

松岡:
すごいですよ。だから、すごく強くなりましたね。倉敷商は一気に全国区になりましたからね。

星野氏が3年、松岡氏が2年だった昭和39年、倉敷商は夏の東中国大会決勝まで進む。米子南高校に3対2で惜敗したものの、甲子園出場にあと一歩というところまで迫った。

エースの負傷で補欠から投手に

松岡:
倉敷商に入ったときはピッチャーをやってなかったんですよ。

徳光:
そうなんですか。

松岡:
だって1つ上にあんな人がいるんだよ(笑)。

徳光:
あの人が卒業するまではできないですね(笑)。

松岡:
2年の秋までは僕の同級生にピッチャーがいたんです。僕は補欠みたいなもんで、ファーストをやったり適当なところを守らせてもらったりして。

松岡:
そのエースの同級生が思わぬ出来事で利き腕の右手をケガしちゃって、ピッチャーに空きができた。そしたら同級生全員が「お前、ピッチャーやれ」って。ほんとは僕、大嫌いだったんだから、ピッチャー。

徳光:
なぜピッチャーが嫌いだったんですか。

松岡:
1人で全部やんなきゃいけないじゃないですか。そんな責任持ちたくなかったの(笑)。

平松政次氏と投げ合い再試合

松岡:
僕が3年になったとき、岡山東商の平松政次が、(春のセンバツで優勝して)岡山県が全国区になった。彼は「岡山東商」で学校の名前に岡山がついてるんです。憎かったね(笑)。でも、あの人のおかげで岡山が有名になった。

徳光:
すると刺激になったわけですか。

松岡:
大刺激。

昭和40年夏の岡山大会準決勝で倉敷商は岡山東商と対戦。3対3で日没引き分けとなり、翌日行われた再試合で、倉敷商は岡山東商に5対2で敗れ甲子園出場はならなかった。

松岡:
準決勝で平松と戦ったけど日没引き分けで次の日にゲーム。その頃、全部の試合に投げさせられてたんで、疲労困憊(こんぱい)で…。

徳光:
でも、3年生のときの1年間で相当すごいピッチャーになったってことですよね。

松岡:
ほとんど全部投げさせてもらってて。その頃にようやく目覚めたんですね。

徳光:
ピッチャーとしての意識、勝負に対しての意識が…。

松岡:
芽生えましたね。特に平松君に負けたのはやっぱり悔しかったですよ。

ドラフト5位指名も「交渉しません」

高校卒業後、松岡氏は三菱重工水島に入社し、昭和41年、42年にクラレ岡山の補強選手として都市対抗野球に出場。昭和42年のドラフトでサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)から5位指名される。

松岡:
ドラフトにかかったら、大体、12月くらいまでにあいさつに来られるじゃないですか。そのあいさつがないんですよ。で、手紙が来て、「あなた、いりません」って。

徳光:
えっ、なんで。

松岡:
「交渉しません」っていう手紙が来た。
後で分かった話ですけど、サンケイは4位までの分しか金がなかった。5位の支度金とかが用意できないから、「ちょっと勘弁してくれ」と。

徳光:
そんな手紙が来たんですか。

松岡:
手紙一通だけですよ。それで、「見返してやろう」って思った。「ようし、見とれ。絶対、サンケイアトムズのスカウトの人たちを実家まで呼んで、頭を下げさせてやる」って。
同じ芝生の上を3カ月ぐらい走ってたら、芝生が枯れちゃって3~4月になっても芽が出ない。

徳光:
“松岡ロード”だ。

松岡:
半年間ぐらいは、ほんとに死にものぐるいでやりましたから。

徳光:
それで、今度は三菱重工水島として都市対抗に出るわけですね。

昭和43年の都市対抗野球1回戦で三菱重工水島は優勝候補の日本鋼管と対戦。松岡氏は好投したものの1対0で惜敗した。

松岡:
そのゲームが終わったときに、宿舎までサンケイのスカウトが来た。「すみません」っていう態度で来たんだけど、「倉敷まで来てください」と強い口調で言いましたよ。そしたら、すぐに倉敷まで来ましたよ。
東京の宿舎に来たのは2~3人だったんですけど、倉敷には5人で来ました。みんな、ヘヘーッて感じで頭を下げる。

徳光:
あれはなかったことにしてくださいみたいな感じで…。

松岡:
その通りです。

徳光:
色んな人にプロ入団のいきさつをうかがいましたけど、こんな入団の仕方を聞いたのは初めてですね。

2試合目でプロの洗礼

昭和43年8月にサンケイに入団した松岡氏だったが、1年目の成績は散々なものだった。

松岡:
これがプロかと思いましたよ。初登板は10月1日の巨人戦で2イニングを1失点。次に巨人との最終戦で先発したのはいいんだけど、2試合目の登板のときはもう全然違いましたから。

徳光:
どういうことですか。

松岡:
土井(正三)さんのバントでアウトひとつ取っただけなんです。自責点が5で、1回ももたずにノックアウト。それでそのままファームですよ。

“魔術師”三原脩監督の言葉

1年目は0勝、2年目8勝、3年目4勝と伸び悩んでいた松岡氏だが、4年目の昭和46年に14勝と一気に開花する。この年からヤクルトの指揮を執ったのは三原脩氏。巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督を歴任し、卓越した選手起用と名采配で“魔術師”の異名をとった伝説の名監督だ。

松岡:
監督が三原さんになったっていうことが、一つの大きな転機。三原さんからの教えは一言だけ。もう簡単なことなんですよ。僕、どんどん近めに投げるようになった。

徳光:
インコースに。

松岡:
「その勇気がなきゃ、お前は勝てないよ」って言ってくれたのは三原さんなんです。「勇気を持て」って言われた。その一言。「当てるボールが投げられる勇気を持ちなさい」。

徳光:
それは、インコースを攻めろと。それまであんまりインコースを攻めてなかったんだ。

松岡:
というか怖くてインコースを攻める勇気がなかったです。それまでは安全に攻めてばっかりだから、バッターに踏み込まれる。
やってみなさいっていうこと。考えたってできなきゃ何にもならない。

徳光:
すごいのは「具体的にここを攻めろ」と言うんじゃなくて、「勇気を持て」っていう一言で松岡弘が何を考えるかっていうことを…。

松岡:
見てたんですね。三原さんってそういう人ですよね。

徳光:
そのきっかけを与えるところが、すごい指導者なんですね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/6/18より)

【後編に続く】

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