昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
中日ドラゴンズの主軸打者として活躍した谷沢健一氏。巧打の中距離打者として強竜打線を引っ張り、新人王、首位打者2回、ベストナイン5回などのタイトルを獲得。持病のアキレス腱痛による引退の危機を乗り越えて通算2062安打を積み重ねた“不屈の男”に德光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
ミスターが書いた色紙
この記事の画像(13枚)谷沢:
中日入団を決めたのが12月10日過ぎ。決めた瞬間にあるスポーツ新聞から電話がかかってきて、「上北沢の長嶋邸に来てくれ」と。長嶋さんと田淵(幸一)さんと僕、3人での対談だったんです。
徳光:
田淵さんはプロに入って1年目で新人王ですよね。
谷沢:
そう。庭にはお子さんがチョロチョロしててボールを投げたり蹴ったりしててね。これが後の一茂。
そのときに食事をしながら、「長嶋さん、書いていただけますか」と僕が色紙を出したんですよね。そしたらね、横書きするんですよ。ちゃんと読めるように「長島茂雄」と書いてある。
谷沢氏が今でも大切に玄関に飾っているというその色紙にはこう書かれてある。「一本のバットにすべてを託し、努力に努力を重ねた谷沢君 君の背番号14番に音のしない誰にも負けない大きな大きな拍手を送る」。
谷沢:
頼んですぐにこうやって文章を書いてくれる。その感性ってすごいよね。
徳光:
そうですね。同時に長嶋さんが谷沢健一に注目していたってことがよく分かりますよ。
谷沢:
本当によく声をかけてくれましたよ。僕はファーストを守ってましたから、長嶋さんがヒット打ってファーストに来ると、「谷沢くんは、今、何本打ってんだ」とかね。
徳光:
そういう会話があったんですね。
谷沢:
僕は生涯で5打数5安打打った試合は1試合しかないんですよ。そのときにランナーとして三塁まで進んだんですね。そしたら、サードを守っていた長嶋さんが、「谷沢くん、お見事!」とか言ってくれて。あれは、うれしかったねぇ。
王氏からの金言アドバイス
一方、王貞治氏からも谷沢氏は忘れられないアドバイスをもらったという。
谷沢:
中日に、徳武(定祐)さんというコーチがいたんですよ。早稲田実業で王さんの先輩。あるとき、徳さんが、「ある店に王を呼ぶからお前も来い」と。
谷沢:
そのとき、「目標はどのくらいを掲げてるんだ」と王さんが聞くんですよ。「3割打ちたいです」と答えたら、「3割5分を目指さないと3割は打てない。それぐらいの目標を持ってやれ。俺は1000本を目標にしてるんだ」って。ちょうど714本のベーブ・ルースの記録を打ち破った時期ですよ。
徳光:
そのときに「1000本」とおっしゃってたんだ。
谷沢:
結局868本、1000本に近いよね。そういう目標の高さを示してくれた。
巨人戦でヒットで一塁に出ると「今、何本打ってんだ」。「1200何本です」と答えると、「2000本を目指してやれよ」というようなことを言ってくれたりね。王さんのそういうアドバイスは頭に残ってますね。
引退危機を救ったのは…
徳光:
谷沢さん、アキレス腱を痛めましたよね。
谷沢:
ええ、病院は20数件行きましたね。
徳光:
これはっていうものはありましたか。
谷沢:
それが、どこの病院にも「手術は不可能」と言われたんです。アキレス腱が踵についてる付け根のところに小指の第一関節ぐらいの軟骨ができてた。これが邪魔するんですよ。でも、どの病院に行ってもダメなんです。「削り取るとアキレス腱が何本か切れてしまうから、そのあと野球ができるかどうか」、そういう回答ばっかりだったんですよ。
で、昭和54年のキャンプで全然走れなくて、やることないから、諦めてキャンプの途中で名古屋へ帰ってきたの。
徳光:
もうプロ野球選手をやめようと思ったということですか。
谷沢:
99%辞めようと。
徳光:
おいくつのとき。
谷沢:
31です。
徳光:
じゃあ、まだまだこれからっていうときですよね。
谷沢:
ええ、ほんとは一番脂が乗るときですよ。
谷沢:
で、名古屋に帰ってきてたら、ある電話がかかってきたんです。愛知県の春日井市で金物店をやってるファンの人からで、「自分のお袋は3年間寝たきりだったけど、ある治療で自分の足で歩けるようになった。谷沢選手の足も治るはずだ。行ってみないか」と。
徳光:
ファンもアキレス腱痛を知ってたわけですね。
谷沢:
そう、知ってた。
「じゃあ、お前さんの顔を立てるから一回ついていくよ」と。それで、春日井市で待ち合わせしたんです。あそこは製紙工場が多いんですよね。その工場の中へ入っていくんですよ。工場の端のほうに平屋建ての日本家屋があって、部屋の真ん中に敷いてあったせんべい布団で75~76歳のおじいさんが治療してたんですよ。時折、水みたいなものを垂らして全身に塗りながらマッサージをするんです。
そのおじいさんに「谷沢くん、すぐ診てやるから」って言われて、布団の上にうつ伏せに寝たんですよ。そしたら、そのおじいさんが何も言わずに足の先から触ってゴリゴリするんです。これが痛いんです。
徳光:
何か塗ったりはしないんですか?
谷沢:
水みたいなものを垂らして…。実は、それが酒だったんですよ、日本酒だったんですよ。
徳光:
えっ、お酒ですか。
谷沢:
水じゃなくてお酒だったんですよ。お酒を塗りながらやるわけです。
徳光:
その結果はどうなったんですか。
谷沢:
3日目くらいに足腰がすごくあったかいんですよ。これはもしかしたら効くんじゃないかなと思って、周りの雑音は消して、そのおじいさんに懸けたんです。
徳光:
そこから2度目の首位打者を獲るわけですか。
谷沢:
そう。その金物屋さんが紹介してくれなければ出会いはなかったんです。
江川氏の速球への対策
徳光:
ケガから復活して2度目の首位打者のときの打率は3割6分9厘、これはすごい数字ですけど、その頃はもう投手も変わってたわけじゃないですか。例えばジャイアンツだと江川(卓)さんとか西本(聖)さんなんかが投げてた時代ですよね、
谷沢:
そう。だから、江川君にしても西本君にしても、復帰してからの新しい自分の形っていうか、狙い球の絞り方とか配球の読み方とか、そういうことを彼らから学ばせてもらいましたよね。
徳光:
いきのいい若いピッチャーが出てきたときに、自分自身をまた変えたわけですか。
谷沢:
変えたんです。ケガをする前は、センター付近に流していればヒットが生まれるんで、あまり相手の配球読んだりはしてなかったから。
徳光:
そういう打者だったわけですね。
谷沢:
でも、それじゃあ、もうチームに貢献できないんですよ。
江川のあの速いストレートに対して、いつも使ってるバットだとヘッドが重くて、ボールの下っ面にバットがいってポップフライになってしまう。
谷沢:
だから、江川が投げてきたときには、バットを変えるんですよ。
徳光:
えっ、そうなんですか。
谷沢:
ちょっと手元の部分を太くしてた。そうするとヘッドが軽く感じるんですよね。
徳光:
投手・江川のときはどういう感じに打つんですか。
谷沢:
江川のときは、手元が太いバットを持って少し高く構えてた。それで、打つポイントを前にする。なおかつ引っ張るんです。
ただ単にストレートを普通に打つと、ボールの下っ面にバットがいってチップしてしまう。だからポイントを前に置いて捕まえる。
徳光:
捕まえるわけですか。
谷沢:
テークバックしたら食い込まれちゃってもう終わりだから、バットがすぐに出るように軽く感じるバットにしとく。江川用のバットにしとく。
徳光:
それは江川さんだけですか。
谷沢:
そう。江川対策。
吉永小百合からカンニング!?
谷沢:
早稲田大学時代、1年上に吉永小百合さんがいたんですよ。
徳光:
そういえば彼女も早稲田の第二文学部ですね。
谷沢:
それで授業も一緒のことがあったんですよ。階段状の教室で目の前に吉永小百合さんがいたんです。
徳光:
ちゃんと授業に出ていたわけですね。
谷沢:
それで試験ですよ。小百合さんがいて僕はその後ろにいる。身を乗り出して小百合さんの解答用紙を見てたんです。そしたらなんか、ヒントになるような解答があったんですよ(笑)。
徳光:
吉永小百合さんからカンニング(笑)。
谷沢:
そしたら彼女は気が付いたんでしょうね。肘で隠すんです(笑)。それから見せてくれない。
徳光:
プロ野球選手になってから、吉永小百合さんとその話をしたことはあるんですか。
谷沢:
小百合さんは4年生のときしょっちゅう神宮に早慶戦を見に来てたの。応援席の一番前でネットにすがりつくようにして見てた。
僕が西武ライオンズのコーチになったときも、小百合さんが西武のファンだからベンチに来たりしたこともありました。
でも、話すということはなかったですね。
徳光:
残念ですね。そのカンニングの思い出話だけでもしていれば…。
谷沢:
ほんとそう。話しとけばよかったね(笑)。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/6/4より)
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