昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
中日ドラゴンズの主軸打者として活躍した谷沢健一氏。巧打の中距離打者として強竜打線を引っ張り、新人王、首位打者2回、ベストナイン5回などのタイトルを獲得。持病のアキレス腱痛による引退の危機を乗り越えて通算2062安打を積み重ねた“不屈の男”に德光和夫が切り込んだ。
【前編からの続き】
張本勲氏とのし烈な首位打者争い
徳光:
谷沢さんは、優勝した昭和49年は打率2割9分0厘、翌昭和50年が2割9分4厘となかなか3割に到達しなかった。その翌年に3割を超えて首位打者になるんですよね。

谷沢:
そう。張本さんと首位打者争いをしたとき。最後、張本さんがトップで、巨人はもうシーズンが終わってたんですけど、中日は2試合残ってたんですよ。このとき張本さんにはセ・パ両リーグでの首位打者という記録がかかってた。
で、シーズン最後の日、広島とのダブルヘッダー、4打数3安打打たないと逆転できないんですよ。
徳光:
はい、はい。
谷沢:広島は、金城(基泰)というアンダースローのピッチャーが投げてたんですけど、第1打席に立ったらサードの衣笠さんが、ススーッと前へ来るんですよ。「キヌさん、そんなセーフティなんかしないよ」と。で、打ちにかかったの。そしたら、ライト前にポテンヒットみたいなのが生まれて、それが1本目なんですよ。2本目が一二塁間へのヒットです。3打席目は高橋里志さんというピッチャーでね。
徳光:
いましたね。
谷沢:
そのとき、すごく成績が良かったピッチャーなんですけど、見逃しの三振です。
徳光:
4打席目はどうだったんですか。

谷沢:
4打席目に入るときに、「今シーズン、どうやってきたんだろう。自分の形に徹してやろう」と思ったんですよ。あのシーズンはそれまで175本ヒットを打ってたんですけど、そのうち単打が130本ぐらい。それに徹しようと考えて初球を打ったら、足元へのファールだったんです。そのとき、「あっ、これだ。このスイングだな」と。
徳光:
なるほど。
谷沢:
そしたら、高橋里志さんが2球目に真ん中からちょっと沈むフォークボールを投げてきたんです。それにバットを出しただけだったんですけど、センター前に飛んでいったんですよ。それで4の3で決まりです。

この年の谷沢氏の打率は3割5分4厘8毛3糸、張本氏の打率は3割5分4厘7毛7糸。その差はわずか6糸、「10万分の6」だ。長いプロ野球の歴史の中でも最も僅差での首位打者獲得だった。
少年時代は左利きなのにサード
徳光:
左利きなのに長嶋さんに憧れてサードを守っていたとか。
谷沢:
小学校のときはサードばかり。
徳光:
左利きでできたんですか。
谷沢:
狭かったの。三角ベースですから。一塁があってすぐに三塁。二塁がなかった。
徳光:
三角ベース、ありましたよね(笑)。
谷沢:
一番目立つポジションだからサードを守って。ボールを捕っては手を真っすぐ伸ばしながら投げてましたね。

徳光:
長嶋さんの真似してたんですね。
谷沢:
真似してましたね(笑)。
高校入学前から大会出場
徳光:
習志野高校はどうしてお選びになったんですか。
谷沢:
当時、習志野高校に久保田高行さんというコーチがいらしたんです。その方は、王さんが早稲田実業で甲子園で優勝したときのコーチなんですけど、この方の作戦は今でいうインサイドベースボール、そういう感じの野球をしてたんですよ。それで、絶対に習志野に行きたいと。
今、秋にやってる明治神宮記念大会が、当時は春にあったんですよね(日本学生野球協会結成記念大会)。春の甲子園の時期に神宮球場で大学の部と高校の部がやってましてね。
習志野の試験に受かって入学前に行ったら、いきなりですよ。それに「お前、出ろ」と言われて…。

徳光:
習志野高校の高校生としてですか。
谷沢:
本当はまだ中学3年生です。高校生になっていない。久保田さんのおかげで出してもらったんですよ。
徳光:
久保田さんはすごい慧眼ですね。谷沢健一にそこまで惚れ込んだということですね。
谷沢:
ピッチャーをやってたのに、「バッティングのほうがいい」って言ってね。すぐバッターに変えられました。
徳光:
それを変えたのも久保田さんなんですね。
甲子園出場に立ちはだかった壁
徳光:
甲子園はお出になられたんですか。
谷沢:
いや、出てない。
徳光:
そうですか。ということは高校時代に悔しい思い出が…。
谷沢:
高校3年のとき、千葉の県予選準決勝で銚子商業と当たったの。銚子のピッチャーは木樽(正明)ですよ。

谷沢氏の前に立ちはだかったのは銚子商業の木樽正明氏。後に東京オリオンズ・ロッテオリオンズで速球と切れのいいシュートを武器に活躍し、最多勝や最優秀防御率などのタイトルを獲得した。
谷沢:
春の県大会も木樽と当たってたの。そのときに木樽はスライダーを投げてた。当時、内角に食い込むスライダーなんてあまり見たことないですよ。その春の大会で延長10回に木樽からホームランを打ったんですよ。

谷沢:
そして夏の大会でしょ。今度はスライダー投げないんですよ。
徳光:
待っていたんですか。
谷沢:
スライダーを待ってたの。でも、全然来ないんです。それで打ち取られて。散々な目にあいました。銚子商業はそのまま甲子園に行って準優勝ですよ。
プロを蹴って早稲田進学へ猛勉強
谷沢氏は高校3年生のときにドラフトで阪急から4位で指名された。しかし、プロに行こうとは考えなかったという。
谷沢:
ちょうど授業中かな。担任の先生に呼ばれて、「お前、阪急ブレーブスに指名されたけど、どうするんだ」って聞かれて、「いや、そんなところ行きませんよ」って。
子供のときから親父が六大学野球が大好きで、親父と一緒に神宮で早慶戦見たり早明戦見たり、神宮に結構行ってたんです。
徳光:
刷り込まれてたわけですね。

谷沢:
早慶戦を見て、「グレー(慶應)よりも白(早稲田)がいいな」とかってね。親父が白いほう(早稲田)が好きだったから。
それで、阪急に指名されても、「俺はプロは行かない。早稲田を受験するんだ」。そしたら、担任の先生はね、「お前が早稲田? そんなところ行けないぞ」なんて言うんですよ。でも、別のクラスの英語の先生が、「応援するよ。勉強の仕方も教えるから」て言ってくれた。
徳光:
ということは、一般受験でお入りになった。
谷沢:
そう、一般受験。
徳光:
すごいですね。何学部だったんですか。
谷沢:
僕は第二文学部。夜間ですね。
徳光:
早稲田の二文も相当難しかったですよ。
谷沢:
1日10時間ぐらい勉強しました。
徳光:
プロに行くという気持ちは全くなかったんですか。
谷沢:
なかったですね。
中日の1位指名に…

早稲田大学に進学した谷沢氏は東京六大学野球で通算打率3割6分0厘、63打点、18本塁打と大活躍。6季連続で打率3割以上に達し、2年のときの春季リーグでは打率3割9分6厘で首位打者にも輝いている。
徳光:
早稲田での谷沢さんの成績はかなり良かったですよね。今度はプロを目指そうと思ったんですか。
谷沢:
いや、思わない。
徳光:
思わなかったんですか。でも、ドラフトでは中日が12球団いの一番で谷沢健一を指名。このときはどうだったんですか。
谷沢:
いやぁ、複雑だったですね。だって、千葉県で育ってて、近くにある球団はジャイアンツじゃないですか。ヤクルトもあったけど、やっぱりジャイアンツファンになりますよね。
徳光:
じゃあ、ジャイアンツに行きたいとは思ってたんですか。
谷沢:
ジャイアンツのスカウトにも会いましたよ。ジャイアンツは「1位を引いたら指名するから」と言ってくれましたが、当時のドラフトは12球団でくじ引きだから、どの球団が引き当てるか分からないわけです。
中日も田村(和夫)さんというスカウトがいて何回もお会いしましたよ。どこに行くか分からなかったけど、中日がいの一番で指名してくれた。それでも、すぐに行きたいとは思わなかった。あまり馴染みがなかったから。
徳光:
でも結局、断わらなかったんですよね。
谷沢:
うん、断んなかった。僕は学生のときからちょっと足が悪かったんですよ。すごい捻挫をして、少し持病になりかけてたんですよ。

谷沢:
それを知りながら田村スカウトはいの一番に指名してくれたんでね。
徳光:
うわぁ、いい話だな。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/6/4より)
【後編に続く】
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