2023年、いったん、のれんを下した113年の歴史を持つ広島の手焼きせんべいの店が、2024年8月に復活した。のれんを継いだのは広島に越して来たばかりの若者だ。伝統の味を守りながらも、進化を模索するその思いを取材した。

2023年にいったん閉店 引き継ぎ手が現れる

広島市中区に8月にオープンした「芸陽堂」。いろいろな手焼きせんべいが並ぶ中で、看板商品は、広島ゆかりの文人・歴史家から名前をとった「頼山陽煎餅」だ。

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そして、のれんを継いだ「焼き手」は畔柳僚太(くろやなぎ りょうた)さん。愛知県出身の28歳で広島に越してきてまだ1年だ。

畔柳僚太さん(28)
畔柳僚太さん(28)

店は真新しいが、昔ながらの手焼きのための古い道具が目を引く。

畔柳僚太さん:
これは芸陽堂で使われていた秤で、2~3代目から使っているという話。

店のはじまりは113年前にさかのぼる。明治時代に現在の中区大手町で創業した芸陽堂は、1945年、戦況の悪化で一度廃業に。しかし、その7年後、中区堺町で復活を遂げた。

そこから長きにわたり伝統を守り続けてきたが、店主の高齢化などにより、2023年に惜しまれつつも閉店した。

閉店を知り「店を引き継ぎたい」という人が現れた。せんべいを注文したことがあるコンクリート資材メーカーの社長だった。

資材メーカー ナガ・ツキ 長谷川晴信社長:
新聞を見て知ったと思うが、店を閉じるのは非常にもったいないなと思い、うちで引き継がせてくださいと話をさせてもらった。

道具を譲り受け、後継者を探していた矢先に畔柳さんとの出会いがあった。若者の目線で伝統を進化させた新たな広島土産を作ってほしいと期待をかける。

手焼きは半分が廃棄に

「芸陽堂」の一日は仕込み作業から始まる。卵黄、砂糖、小麦粉のシンプルな素材を1時間かけて手で混ぜ合わせる。

畔柳僚太さん:
手でやるとよく混ざる。せんべいの生地を作る上で一番大事なポイントは、手で混ぜながら生地のかたさを確認すること。

菓子づくりの経験はなかった畔柳さんは、なぜ芸陽堂を継ごうと思ったのか。

畔柳僚太さん
畔柳僚太さん

畔柳僚太さん:
芸陽堂の歴史を知って、この歴史を守らなきゃいけないという思い一心ですね。明かりを守っていこうというのが理由ですね。

しかし、113年間守られてきた焼き方を習得するのは決して簡単ではない。手焼きは生産枚数に限界がある上、火の加減が難しく、温度が安定するまで、焦げたり穴が開くなどして半分以上は商品にならないという。

畔柳僚太さん:
一番最初をミスすると、ずっと焼けなくなってしまう。そうすると、生地を作った時間も無駄になってしまう。焼き損ないでロスが5~6割出てしまう日もあるので、機械化して廃棄を減らしていきたい。

伝統の手作業を一部に残しながら、機械化でロスを減らそうという計画。伝統を守りつつも、改善できるところは、改善し進化させるスタンスが必要だ。

新しい店の噂は口コミで広がっているようだ。

畔柳僚太さん:
オープン当初はもとの芸陽堂に来られていた方が多かったが、最近は近辺の方や口づてで来てくれる方が多くなった。

せんべいのブランド「頼山陽」について学ぶ

畔柳さんは広島に移り住んで1年。この日は「頼山陽史跡資料館」を訪れた。広島ゆかりの江戸後期の文人・歴史家である頼山陽が残した功績から、せんべいの名前に付けられたその背景を探るためだ。畔柳さんも「なぜ『頼山陽』の名を芸陽堂が付けたのか疑問に思っていた」という。​

江戸後期の文人・歴史家 頼山陽
江戸後期の文人・歴史家 頼山陽

背景について、頼山陽史跡資料館​の花本哲志主任学芸員は「やっぱり『知名度』。みんなが知っているというのが理由にあったと思う」と話す。

「日本外史」など表現が巧みな頼山陽の歴史書は、幕末から芸陽堂創立の明治にかけ、多くの人に読まれ、感銘を与え愛されてきた。

頼山陽史跡資料館・花本哲志主任学芸員:
芸陽堂が閉店と聞いて「あぁ残念」と思ってたんですよ。また買いに行ける。よろしくお願いします。

畔柳さんは、資料館で頼山陽のことを学び、その名が付けられた、せんべいづくりへの思いを新たにしたようだ。

畔柳僚太さん:
頼山陽を知らない方が増えてきているので、頼山陽のこと、そして頼山陽煎餅のことを知っていただけたらうれしい。

113年の手焼きせんべいの歴史をいかに進化させるか、畔柳さんの挑戦が続く。

(テレビ新広島)

テレビ新広島
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