2005年の台風14号で2つの鉄橋が流され、壊滅的被害により廃線を余儀なくされた宮崎県の旧高千穂鉄道。現在は観光列車を運行する「高千穂あまてらす鉄道」として旧高千穂駅と一部の線路を利用し、高千穂観光の目玉の一つに成長している。

そこで働く2人は約20年前、高千穂鉄道の運転士と小学生の乗客として出会っていた。2人が共に目指すのは「高千穂鉄道の復活」。世代を超えた2人が熱い想いを語り合った。

高千穂鉄道は「動く公民館」だった

旧国鉄時代の1972年に高千穂駅まで開通し、高千穂町と延岡市を19駅で結んでいた旧高千穂鉄道。通勤・通学をはじめとする地域の足として愛されていた。

延岡市出身で20代の頃から高千穂鉄道の運転士として活躍していた齊藤拓由さん。一方、日之影町出身の高倉優樹さんは、高千穂線大好き小学生として、当時運転士の間でも有名だった。

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高千穂あまてらす鉄道 総支配人 齊藤拓由さん:
小さい頃、私が運転士のときに、窓にへばりついて風景を見ていたね。

高千穂あまてらす鉄道 高倉優樹さん:
本当に列車の先頭から離れなかった。降りる駅じゃないのに。運転士さんの顔が直接見えるのが、やっぱり大きかったなあって。

齊藤さんによると、高千穂鉄道時代の運転士たちは、小さい子供だけで乗っていると声をかけていたという。誰も迎えに来ていなかったら、「大丈夫だろうか?」って心配をしたり。齊藤さんが運転している時は、いつも乗る乗客がどこの駅から乗ってどこの駅に降りるかがわかっていて、いつも乗る人が乗ってこないと「どこか悪いんじゃないだろうか」という話になっていたという。

齊藤さんは当時について、「小さい車両なので、学生が乗っているとき、横に年配の人たちが乗ると、そこで学生と会話ができる。ある意味コミュニケーションの場であって、動く公民館っていう存在だったと思う。そういう空間が、鉄道時代はあった」と語る。

高千穂生大好き小学生だった高倉さんは、小学4年生の時、運転士だった齋藤さんと運命的な出会いを果たす。

高倉優樹さん:
あの頃は本当に、高千穂線って大人になってもあるものだと思っていた。大人になったら運転士にどうやったらなれるんだろうと親に聞いても教えてくれなかった。

高倉さんは親から、「今度鉄道に乗ったときに聞いてみたら?」と言われていた。しかし、「どんな学校行ったらいいですか」と聞いたら、何と返ってくるだろう?などと考えてしまい、なかなか聞けなかったという。

ある日、終点の延岡まで乗った時、途中から立ち上がり、「今日は聞けるかな」と思って運転席を見たら斎藤さんだった。当時高倉さんは齊藤さんの事を「若くてイケメンな運転士さん」と認識していて、手と足が一緒に動くような感じで運転席の横まで行き、思い切って質問したそうだ。

「どんな学校に行ったら運転士さんになれますか?」

小学生時代の高倉さんは自分なりに、「機械に関する学校に行った方がいいよ」などと返ってくるのではと想像していたそうだが、齊藤さんの答えは意外だった。「どんな学校に行ってもいい。その代わりしっかり勉強しなさいよ」。

高倉優樹さん:
斎藤さんの言葉でちょっと考え方が変わったというか。それまで勉強大嫌いだったんです。でも勉強ってしないといけないんだって。

高倉さんはそのあと何度も齊藤さんが運転する車両に乗ることがあり、地域の人から声をかけられる齊藤さんの姿を見ていた。いつしか「斎藤さんみたいな運転士になりたい」と思うようになったという。

齊藤拓由さん:
私も20歳そこそこから運転し始めて、地域の人たちにかわいがってもらったというのがあって。そういう事を高倉くんも感じてたのかなと。またそういう時代を取り戻したいと思う。

台風被害で高千穂鉄道が廃線に

2005年9月6日、台風14号が高千穂鉄道を襲った。

五ヶ瀬川は瞬く間に増水し、駅は浸水。鉄橋は流され、線路はあちこちでうねり、被害総額は約26億円にのぼった。

当時高倉さんは毎日小学校に行く途中、踏切にさしかかる時に列車が通過していた。列車に向かって、いつも手を振っていた。それが、台風を境に突然、なくなってしまった。延岡に行くときに渡った鉄橋がもうない、と思うと悲しみがこみ上げた。なんとかして元通りになってほしいと願ったという。

齊藤さんは台風の翌日、二つの鉄橋が流されていることを知った。先輩運転士たちを乗せて、浸水被害が起きたという川水流駅に向かったところ、五ヶ瀬川にかかる第一五ヶ瀬橋梁がレールごと左側に流されていたのを目の当たりにした。続いて槙峰駅まで行こうとしたが、先輩が「もう見たくない、帰ろう」と言い、被害の大きさを痛感したという。

鉄道を運行できない日々が続き、半年経たずして職員は解雇に。あきらめきれなかった斎藤さんは3年に渡って復興運動を続けたが、その声は届かなかった。

2008年、高千穂鉄道は廃線。齊藤さんは福岡の鉄道会社に再就職することを決め、高千穂を去った。

再会、そして上司と部下に

高倉さんは「もう一度、齊藤さんの運転する列車に乗りたい」という気持ちがあり、運転免許を取ったら福岡の鉄道会社まで行って乗車しよう、という強い思いがあった。

いっぽうで齊藤さんは、福岡に行った後も高千穂鉄道の事が気になり、しばしば戻ってきていた。2人の再会は6年前だった。

齊藤拓由さん:
「覚えてますか?」みたいな感じで来たけど、一瞬、ごめんね、誰かわからなかった。でも話を聞いていたら、ああ!って。

その後齊藤さんは、旧高千穂鉄道の一部施設を引き継いで誕生した「高千穂あまてらす鉄道」に就職。高千穂に戻ってきた。

齊藤さんが「うちに入る?」と聞くと、高倉さんは「はい、入ります!」と即答。一年間のボランティア期間を経て、高倉さんは高千穂あまてらす鉄道に入社した。高千穂鉄道の運転士と高千穂線大好き小学生は、20年のときを経て、上司と部下という関係になった。

高倉さんは今でも、齊藤さんは「憧れの人」で、ずっと変わらないと話す。齊藤さんは、他のとこに行って鉄道の運転免許を取ってくるようにと言うが、高倉さんは「やっぱり高千穂線がいい」と、今の仕事に情熱を注ぎ続けている。

こだわりの「濃い~解説」

旧高千穂駅構内には、高千穂鉄道記念資料館がある。

資料館には高千穂駅から延岡駅までを再現した畳6畳分の巨大なジオラマが設置されていて、沿線の風景がよみがえったようだ。訪れる人にその懐かしい風景を伝えるのが、高倉さんの仕事だ。

高倉さんは、当時、客席に乗って聞いていたものを思い出しながら案内している。今の時刻表に照らし合わせて、この時間帯だったらこれだろうと、接続の案内もしている。当時乗っていた人に、懐かしいと思ってもらえればという思いからだ。

齊藤さんは、そんな高倉さんの解説を「濃いーな」と思いながら聞いているそうだ。

旧高千穂鉄道沿いの日之影町では、毎年春、川いっぱいにこいのぼりを揚げている。高倉さんが地域の人たちと設営した時、「何かが足りないね…やっぱり列車が足りない」と言われたという。

昔を思い出すたびに、「高千穂鉄道を復活させたい」という2人の想いは強くなる。

高倉優樹さん:
もう1回高千穂線を通したい、その時にまた思った。

齊藤拓由さん:
何年かかろうが、また高千穂線を復活させたい。これで終わったら違うなと、自分は思う。そういう気持ちを若い人たちにずっと繋げていってもらいたい。

齊藤さんの言葉を受けて、高倉さんは「任せてください、つないでいきます!」と応えた。高千穂線が走る風景を取り戻すまで、二人の夢は続く…。

頑張れ!ぼくらの高千穂線!

(テレビ宮崎)

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