最後の激戦地と言われ、多くの住民や兵士が命を落とした糸満市摩文仁(まぶに)の丘から2024年5月、戦没者のものと見られる遺骨が発見された。

発見したのは、遺骨収集ボランティアチームの代表を務める男性。戦没者と遺族のために遺骨を見つけ出すことや、戦跡や平和学習を通じて沖縄戦の実相を後世に伝えたいと活動している。

断崖に眠っていた遺骨

沖縄戦に動員され犠牲となった学徒たちの追悼式が2024年6月19日、那覇市の養秀会館で執り行われた。

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18歳で学徒動員され、捕虜となり生き延びた渡口彦信(とぐち ひこしん)さん。

渡口彦信さん:
摩文仁の岸壁の穴の中に潜ったんですよ。79年前のきょう

1945年、渡口さんが身を隠し命を繋いだ場所は、平和祈念公園から海岸側に降りる糸満市摩文仁の断崖。

草木をかき分け断崖を降りた先に遺骨は眠っていた。

岩の隙間を抜けた先に見つかった旧日本軍の壕

1945年の沖縄戦。アメリカ軍によって追い詰められた多くの住民と兵士が命を落とした糸満市摩文仁の断崖。

この日、取材班を案内してくれたのは、遺骨収集ボランティアで平和ガイドも務める松永光雄さん。

生い茂る草木をかき分け、急斜面の道なき道を進んでいく。

崩れかけた斜面に巨大な岩が連なって、ひと一人がやっと通れる岩の隙間を抜けながらおよそ20分で大きなガマにたどり着いた。

松永光雄さん:
ここでは多くの兵隊がいたという証言があります

旧日本軍が陣地として使った軍隊壕だったとみられ、これまでに多くの武器や弾薬が発掘され、住民もいたという証言も残されている場所である。

松永光雄さん:
最終的には、水さえあれば人間どうにか生きていけたという証言をしていました

鍾乳洞をつたう地下水や雨水を貯めた井戸のような囲いは戦時中に作られたもので、今も形を残している。

当時、この場所に身を隠した人たちの命を救った水である。

松永光雄さん:
(上から水が)流れて流れて、さらに、これから下の方へ流れています

沖縄戦体験者との出会いが平和ガイドのきっかけに

沖縄鍾乳洞協会に所属して、平和ガイドとしてこうしたガマなどの戦跡を案内している松永さんは、ガマは多くの住民を助けた場所だと考えている。

戦後生まれの松永さんが平和ガイドとなるきっかけは36年前の1988年。

陸軍病院の看護婦長として沖縄戦を経験し、生き延びた具志八重さんの平和ガイドをタクシードライバーとして手伝ったことがきっかけだった。

具志さんの言われるままにコースを行ったり来たりしたあと、休みの時に個人的にコースを往復すると、次から次に別の戦跡も出てきて、いろいろ勉強するきっかけとなったと話す。

岩の間に埋まった一体の遺骨

ガマを出て、さらに20分ほど下った場所で2024年5月、松永さんのチームは岩と岩の間に埋まった一体の遺骨を発見した。

大腿骨やけい骨などの足の骨から、頭蓋骨には歯も残された全身骨である。

松永光雄さん:
もっとあるかもしれない。この辺に。今度、この石をどけないと見つけるのは難しい

その後の収集作業で、付近から手りゅう弾の部品の一部などが見つかったが、身元の特定につながる遺品は出てきていない。

松永光雄さん:
できるだけ掘って掘って、何も出なかったら終了。ただ、この遺骨の遺品があれば、遺族に返したい

命ほど尊いものはない 平和は教育にある

糸満市摩文仁では戦後、住民や沖縄県外から訪れた遺族による遺骨収集で多くが掘り出され、供養されてきた。

しかし、今も活動を続けるボランティアは、20万人余りもの命を奪った沖縄戦の犠牲者は、まだこの地に眠っていると感じている。

松永光雄さん:
まだまだ沖縄の地下には、あの戦争で亡くなっていった遺骨があるんだなというのが実感しています。そういう方々を探して葬ってあげたいと、そういう思いで遺骨収集はさせてもらっています

沖縄戦の体験者から直接聞かせてもらった証言と、自ら歩いた戦跡で見たことを戦争を知らない子どもたちに伝えようと、松永さんは平和学習を行ってきた。

松永光雄さん:
皆さんに分かっていただきたいことは、人間の命の尊さです。命ほど尊いものはない。平和、それは勇気を出して話し合う、それが平和の一歩です

松永さんは、二度と戦争を起こしてはいけないという体験者から託された平和のバトンを若い世代に繋いでいる。

(沖縄テレビ)

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