社会主義体制の崩壊が始まった

 私にとって「平成」は、冷戦の終結という世界史に残る大きな節目を取材した記憶に始まる。

「昭和」から「平成」に代わった1989年は、新たな時代が胎動するような激動が続いていた。ソ連の支配下にあった東欧では民主化の動きを抑えきれず、1月にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が合法化されて共産党一党独裁体制が崩れ、5月にはハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去して「鉄のカーテン」に穴が空いた。

ハンガリー軍によるオーストラリア国境の鉄条網柵撤去作業 1989年5月
ハンガリー軍によるオーストラリア国境の鉄条網柵撤去作業 1989年5月
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「まさか」と思っていた社会主義体制の崩壊が目の前で起き始めていたのだ。

その年の7月、私はベルリンから東ドイツに入ったことがあった。ベルリンの壁にただ一箇所開かれていた「チャーリー検問所」での審査は厳しく、東ベルリンではいつも誰かに監視されているような暗くて重苦しい空気に包まれていた。

「東ドイツの民主化はまだまだだな」

うかつにもそう考えたのだが、そのわずか4ヶ月後にベルリンの壁は崩壊し、東ドイツは社会主義政党の一党独裁制度を終えてしまった。

ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁崩壊

「ヤルタ」から「マルタ」へ 米ソの歴史的会談

アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長
アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長

そうした中で12月3日、米国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領(父)とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長が地中海のマルタ島で会談をしたのだ。

マルタ島といえば、イタリアのシチリア島と北アフリカの間に浮かぶ景勝地で温暖な気候にも恵まれて「地中海の真珠」とも呼ばれていたので「ハッピーな取材」になるはずだった。ところがその日は爆弾低気圧の通過で大荒れとなり、物見遊山も期待していた約3000人の各国からの取材陣は仕事に精を出すだけになった。

しかし会談の方はその期待外れを補って余りある成果を出した。

ソ連の豪華客船の中で行われた共同記者会見を取材する記者たち
ソ連の豪華客船の中で行われた共同記者会見を取材する記者たち

米ソ両首脳は、ソ連の客船マクシム・ゴーリキー号で膝詰めで会談し、軍縮問題や東欧問題など世界の懸案について新たな秩序づくりに同意し冷戦の終結を宣言したのだ。これは1945年2月に米、英、ソ首脳がクリミア半島のヤルタで第二次世界大戦後の世界のあり方を決めた「ヤルタ体制」が終わることを意味しており「ヤルタからマルタへ」とも表現されることとなった。

「これで世界は平和になる」
 会談を取材した誰もがそう締めくくる原稿を書いたはずだ。私も大嵐の中でテレビカメラに向かってそう喋った記憶がある。

社会の「分断化」が進んだ21世紀

このころ米国の政治経済学者フランシス・フクヤマ氏は「歴史の終わり」という著作を発表して注目された。 国際社会で民主主義と自由経済が最終的に勝利し、世界は安定した政治体制が保たれ戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや起きないようになったとフクヤマ氏は著した。

 「21世紀は退屈な時代になる」
 こう断じた識者も少なくなかった。

しかしである。確かに社会主義体制は崩壊したが、世界の問題は解決したわけではない。それどころか社会を束縛していたタガが外れたのか人間の欲望がむき出しの世界が出現して貧富の格差が拡大し、人種間の差別も解消されず社会の「分断化」が進んだ。

その時代を象徴するのが「アメリカ・ファースト」を標榜して選ばれたトランプ米大統領かもしれない。

「平成」時代の世界は、思ってもいなかった展開をしてしまったように思えてならない。次の「令和」の世界は、「社会の分断」を解消するような節目を迎えられるのだろうか。

【執筆:ジャーナリスト 木村太郎】

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木村太郎
木村太郎

理屈は後から考える。それは、やはり民主主義とは思惟の多様性だと思うからです。考え方はいっぱいあった方がいい。違う見方を提示する役割、それが僕がやってきたことで、まだまだ世の中には必要なことなんじゃないかとは思っています。
アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー出身。慶応義塾大学法学部卒業。
NHK記者を経験した後、フリージャーナリストに転身。フジテレビ系ニュース番組「ニュースJAPAN」や「FNNスーパーニュース」のコメンテーターを経て、現在は、フジテレビ系「Mr.サンデー」のコメンテーターを務める。