1950年6月25日、北朝鮮の朝鮮人民軍は突如38度線を越えて南下を開始し、朝鮮戦争が始まった。アメリカを中心とした国連軍が参戦すると、人民義勇軍という名の中国軍も参戦し、朝鮮半島は東西冷戦の代理戦争の場となった。およそ3年間に及ぶ戦闘で半島全土は荒廃し、300万人以上が死亡したとされる。

開戦からちょうど70年が経過した2020年6月25日、北朝鮮による南北連絡事務所爆破の衝撃が冷めやらぬ中で、韓国の文在寅大統領は記念式典で演説した。文大統領は「世界史で最も悲しい戦争を終わらせるための努力に、北朝鮮も大胆に乗り出してくれることを願います」などと北朝鮮側に南北融和のための努力を呼びかけたが、北朝鮮の強硬姿勢には直接言及せず、「平和を通じて南北共存の道を探し出す」と述べるに留めた。

これらの演説内容は日本でも報じられたが、実は日本のメディアではほとんど取り上げられていない「異質な」一節が含まれていた。

「戦争特需を受けた国々」

文大統領は朝鮮戦争で産業施設の80%が破壊されたこと、戦後も南北の対立で国力を消耗してきたことを紹介した後、「私たち民族が戦争の痛みを経験する間、かえって戦争特需を享受した国々もありました」と述べた。南北の話が突然「戦争特需を受けた国々」の話になった。やや唐突な印象を受ける。そして「国々」という複数形を用いているが、戦争特需を受けた国というのは、日本を指しているのは明白だろう。

なぜこのような文言が入ったのか、真意は分からないが、最近の与党有力者や韓国メディアの報道を丁寧に見ていくと、透けて見える事がある。きっかけはアメリカのボルトン前大統領補佐官(国家安全保障担当)の「暴露本」と北朝鮮の強硬姿勢だ。

ボルトン「暴露本」と北朝鮮の強硬姿勢に苦しめられる韓国政府

ボルトン氏の著書は、アメリカ同様韓国社会にも大きな衝撃を与えた
ボルトン氏の著書は、アメリカ同様韓国社会にも大きな衝撃を与えた
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ボルトン氏の著書では、2度にわたる米朝首脳会談の交渉過程が記されている。ボルトン氏は米朝交渉自体が「韓国の創造物」とした上で、韓国主導の米朝非核化交渉をスペインの情熱的なダンスや歌である「ファンダンゴ」に例えたナンセンスだとし、「北朝鮮やアメリカに関する真剣な戦略よりも、南北統一に重きが置かれていた」と断じて文政権の南北融和路線を否定している。結果的に現在、米朝交渉は膠着状態で北朝鮮の非核化は全く進んでいない。

また奇しくも本の出版と同じタイミングで北朝鮮は金与正(キム・ヨジョン)第一副部長が談話で文大統領をこれ見よがしに非難した上、南北連絡事務所を爆破するなど衝撃的な強硬措置に踏み切った。

こうした流れを見た韓国国民はどう感じるだろう。南北融和を最重要課題としていた文政権の対北朝鮮政策は失敗に終わったと感じる人が多いのではないか。それでは政権の求心力が落ちてしまう。政権批判が高まりかねない局面を迎えたわけだが、韓国には批判をかわす絶好の弾よけがある。日本だ。

韓国メディアによると、文大統領を支える与党・共に民主党のキム・テニョン院内代表はボルトン氏の本について「政治的目的を持った意図的な歪曲」と批判した。その上で、著書の中で安倍首相や谷内正太郎前国家安全保障局長が、北朝鮮の非核化に向けて繰り返し慎重な対応をトランプ政権に求めた事などを受けて「ネオコンのボルトンの悪巧みと日本の妨害で、分断70年を中断して朝鮮半島統一の歴史的転換となる千載一遇の機会が消えたという嘆かわしい真実が残念だ」と発言した。

「歪曲」と言いながら、なぜ日本政府の動きを伝える部分を「真実」と判断したのか根拠は定かでは無いが、文政権の南北融和が実現する機会が失われたのは、日本のせいだとしている。日本にとって北朝鮮の核・ミサイル問題は日本人の生命・安全に直結する問題だ。北朝鮮が核兵器を保有したまま南北融和が進み、事実上の核保有国として存在し続けるのは日本にとって悪夢だ。従って日本が、非核化に向けてアメリカに強く働きかけるのは当然のことだ。

一方、韓国側からすれば自国の政策を顧みるよりも、日本批判を際立たせたい理由があるのだろう。

「日本の妨害で、朝鮮半島統一の歴史的転換となる千載一遇の機会が消えた」と主張した与党・共に民主党のキム・テニョン院内代表
「日本の妨害で、朝鮮半島統一の歴史的転換となる千載一遇の機会が消えた」と主張した与党・共に民主党のキム・テニョン院内代表

メディアも同様だ。韓国の大手ニュース専門チャンネルYTNのキャスター、ビョン・サンウク氏は朝鮮戦争開戦70年記念日の前日、こう視聴者に呼びかけた。

「朝鮮戦争での最大の受益者は他でもない日本でした」
「安倍(首相)は自身の続投のため、日本の北東アジア地域の覇権のために朝鮮半島の終戦宣言を妨げていると、ジョン・ボルトンの回顧録に出ています。」
「安倍(首相)と日本は、もしかしたら今でも朝鮮半島での『天佑神助(注)』戦争が再び炸裂するのを、待ち焦がれているかも知れません。」

もし再び朝鮮戦争が起きれば、在日米軍基地だけでなく日本の国土に北朝鮮のミサイルが飛んでくる可能性は高い。北朝鮮の核ミサイル開発の進展を踏まえれば、弾頭も通常弾頭ではないかもしれない。「日本や安倍首相は朝鮮戦争勃発を待ち焦がれている」という見立ては、常識的に考えて「妄想」だ。ただ、ボルトン暴露本での日本批判と、朝鮮戦争70年が韓国では「日本は受益国」という視点で見事に繋がっている。こうした韓国の与党やメディアの言説が、もしくは同じ文脈の意図が、文大統領の演説に唐突に「受益国」が登場した背景にあるのかもしれない。

朝鮮戦争で日本を批判するのはもう止めるべき

朝鮮戦争で日本が特需を迎え、戦後復興のきっかけになったのは周知の事実だ。しかし韓国側が言うように、日本は朝鮮戦争で利益を得るだけだったのか?事実は違う。

防衛省の防衛研究所の資料によると、釜山近くまで攻め込まれていた国連軍が反転攻勢するきっかけとなった仁川上陸作戦の作戦計画立案のために、旧日本軍人が協力したという。朝鮮戦争が起きる5年前まで朝鮮半島は日本の一部だったため、当時の日本人は朝鮮半島の地理や海洋の状況について非常に詳しかったのだ。また切り立った崖を登っての仁川上陸を可能にしたアルミ梯子など軍需物資の製造にも全面的に協力していた。

数千人ともされる日本人が米軍の輸送、橋頭堡の建設などに従事し、機雷除去のための掃海部隊も命がけで戦地に派遣された。日本を統治する占領軍の調達業務を担っていた調達庁がまとめた「占領軍調達史」には、56人の日本人が朝鮮戦争に関連して死亡したという記録もあるという。兵站としての日本が協力しなければ、国連軍は北朝鮮と中国の軍を押し返す事は出来なかっただろう。そして朝鮮国連軍の後方司令部は、現在も横田基地内に存続している。

そういう意味で、文大統領が演説で、特にフォローするわけでも無く、文脈上若干の皮肉も感じる中で「かえって戦争特需を享受した国々もありました」と発言したのは、非常に残念だ。日本の貢献を称えて欲しいとは全く思わないが、日本批判の道具として朝鮮戦争を使うのは控えた方が良いのでは無いか。56人の日本人が死亡した事を軽視する振る舞いは、日本人の韓国観を一層悪化させることになるだろう。

(注)韓国では、朝鮮戦争勃発の報を聞いた吉田茂首相(当時)が、「天佑神助(思いがけない偶然で助けられるという意味)」と喜んだと、日本を批判する文脈で報じられている。

【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】

渡邊康弘
渡邊康弘

FNNプライムオンライン編集長
1977年山形県生まれ。東京大学法学部卒業後、2000年フジテレビ入社。「とくダネ!」ディレクター等を経て、2006年報道局社会部記者。 警視庁・厚労省・宮内庁・司法・国交省を担当し、2017年よりソウル支局長。2021年10月から経済部記者として経産省・内閣府・デスクを担当。2023年7月からFNNプライムオンライン編集長。肩肘張らずに日常のギモンに優しく答え、誰かと共有したくなるオモシロ情報も転がっている。そんなニュースサイトを目指します。