「息子に会いにハワイへ」

2月7日、成田空港でハワイへの出発を待つ家族。
孫と一緒に写るのは、中田和男さん76歳。

えひめ丸衝突事故で亡くなった中田淳さんの父、中田和男さんと孫の綾奈さん(ハワイへ向かう2月7日)
えひめ丸衝突事故で亡くなった中田淳さんの父、中田和男さんと孫の綾奈さん(ハワイへ向かう2月7日)
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世界的なコロナ感染拡大で一時は断念しかけたハワイ行きだが、PCR検査などを経て、ようやく向かうことができる。

コロナ禍でもハワイを訪れる理由…
それは21年前のあの事故。

9人の命を奪った事故から21年

2001年2月10日、日本時間午前8時45分。
ハワイ・ホノルル沖の太平洋で起きた「えひめ丸事故」。

愛媛県宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、緊急浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、沈没。乗っていた実習生4人と乗員・教官ら5人のあわせて9人が行方不明になった。

「えひめ丸」は緊急浮上したアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、沈没した
「えひめ丸」は緊急浮上したアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、沈没した

えひめ丸の指導教官だった中田淳さん(当時33歳)もその1人。生徒らとともに沈没したえひめ丸に取り残された可能性が高いとみられ、絶望的な状況だった。

えひめ丸の指導教官だった中田淳さん
えひめ丸の指導教官だった中田淳さん

事故直後、ハワイに駆け付けた行方不明者家族の会見で、沈没したえひめ丸の引き揚げを強く求めたのが、中田さんの父、和男さんだ。

「息子が乗っていたえひめ丸に何の過失があるのでしょうか。(設計図見せながら)これが揚げていただきたいえひめ丸です。よろしくおねがいします。」

和男さんは涙ながらに訴えた。

行方不明者家族の会見で、沈没したえひめ丸の引き揚げを強く求めた中田和男さん(2001年2月)
行方不明者家族の会見で、沈没したえひめ丸の引き揚げを強く求めた中田和男さん(2001年2月)

家族へ贈った追悼曲『Ehime Maru』

家族の安否がわからないまま、悲痛な思いでハワイに滞在する行方不明者家族。
その心を癒すためにハワイで生まれた曲がある。

ホノルルでウクレレ奏者として活動していたジェイク・シマブクロさんが、行方不明者9人への思いを込めた『えひめ丸/Ehime Maru』だ。

ジェイク・シマブクロさんが演奏するウクレレの音色は悲しみにくれるご家族の魂に響いた
ジェイク・シマブクロさんが演奏するウクレレの音色は悲しみにくれるご家族の魂に響いた

短く刈った髪に、すっきりとした顔立ち。ウクレレを演奏するジェイク・シマブクロさんの姿は、行方不明になった中田淳さんを彷彿とさせるものだった。

ご家族におくるレクイエムを演奏するジェイク・シマブクロさん(2001年2月ハワイ)
ご家族におくるレクイエムを演奏するジェイク・シマブクロさん(2001年2月ハワイ)

演奏したジェイクさんに、中田さんの両親はすがるように泣いた。

「深い海の底にいる息子を早くこの手に抱き寄せたい」。

目の前で奏でられる『Ehime Meru』は、事故への怒りと家族への思いを強くした。

ジェイクさん(左)はご家族を強く抱きしめた
ジェイクさん(左)はご家族を強く抱きしめた

ワイキキの海に響いたウクレレの音色

『Ehime Maru』~21年前に誕生したレクイエムには9人の命が織り込まれていた~
 

そのイントロは小さなさざ波のように始まる。
右手の指が軽やかに弦を弾いていく。
 

そして、その弾弦が煌びやかなトレモロの動きに変わった時、
自分がえひめ丸の甲板に立ち、
穏やかなワイキキの海とその波間に反射する陽光を眺める思いがする。
 

秘かに誕生した名曲。
Ehime Maru。
作曲・演奏はハワイ在住のウクレレ奏者、ジェイク・シマブクロだ。
 

21年前、惨劇を知ったジェイクは、すぐに追悼の思いを曲にした。
そして現地入りしていた家族らの前で演奏した。
それを機に、ジェイクと家族との交流が始まり、
追悼曲は犠牲者の家族の前で幾度となく奏された。
 

曲の基調コードはEm 9th(イーマイナーナインス)。
EmにはEhime Maruの船名が。
9thには9人の命が籠められた。
 

静かなイントロが終わると、高速のアルペジオに移行する。
メロディーは慌ただしく上昇下降を繰り返し、
海底から得体の知れない物体が忍び寄る姿を描く。
 

それに、4弦全体を掻き鳴らすラスゲアードが加わり、
ウクレレの小さなボディが唸る。
物体の接近に伴う波動が船底に届く衝撃だ。
 

そして、フレットを這う指が最高音域に達した時、
ラスゲアードの激しさは弦の張力の限界に近付く。
物体がえひめ丸に衝突した瞬間だ。
 

乗組員の悲鳴と衝突音が交錯するように、
高域メロディーと掻き鳴らし音がぶつかり合う。
それを聴く時、家族らは失った子らが苦しんだ恐怖を疑似体験し、
必死に耐え、そして涙する。
 

ラスゲアードが終わると、
徐々に安らぎのメロディーに変わっていく。
 

えひめ丸の船体は一瞬にして海底に沈み、
海面にはまるで何事もなかったかのように
再び平和と静けさが広がる。
 

そして、コード進行はエンディングに向かうことなく、
曲は途切れるように突如終わる。
メロディーにはまだ続きがある様にと・・・
9人の魂が生き続ける様にと・・・

(矢野修至)

(追悼曲『Ehime Maru』を動画で見る↓)

 

難航を極めた船体の引き揚げ

ハワイ沖の深海600メートルに沈むえひめ丸。

えひめ丸が沈んだ海に献花するご家族(2001年10月)
えひめ丸が沈んだ海に献花するご家族(2001年10月)

家族が求めた船体の引き揚げは容易なものではなかったが、日本政府とアメリカ海軍の幾度にもわたる交渉の末、ようやく引き揚げが決定した。

作業は海底に沈む船体をワイヤーで引き揚げ、台船につるした状態でゆっくりとホノルル沖の浅瀬まで曳航してくるという、過去に例がない大がかりなものとなった。

海上の大型作業船「クローリー・バージ450-10」によってえひめ丸の引き揚げ作業が始まった(2001年10月)
海上の大型作業船「クローリー・バージ450-10」によってえひめ丸の引き揚げ作業が始まった(2001年10月)

引き揚げ作業開始から約2カ月。
えひめ丸がホノルル沖の浅瀬に曳航され、船内にダイバーが捜索に入った。

ダイバーによる海中捜索
ダイバーによる海中捜索
えひめ丸から遺留品を回収するダイバー
えひめ丸から遺留品を回収するダイバー

「8カ月も海の底でがんばっとったぜ」

その頃、中田和男さんは、妻・幹枝さんと、淳さんの妹かおりさん、そしてまだ1歳だったかおりさんの長女とともに、現地ホノルルで捜索を見守った。

船内捜索で1人、そしてまた1人と遺体発見の知らせが届く。

そして捜索10日目、中田淳さんも…。

遺体となった淳さんと再会した和男さんは当時、FNNの取材に対し、
「8カ月も海の底で父ちゃんがんばっとったぜ。という顔をしてました。俺たちの子供だなと思いました。」と言葉少なに語った。

ホノルルで荼毘にふされた中田淳さん。
両親、そして妹たちに見守られ。

現地で遺体を見送る中田さん家族
現地で遺体を見送る中田さん家族

22日間にわたる船内捜索では行方不明者9人のうち8人の遺体が発見されたが、実習生1人だけはみつからず、行方不明のままに。

そしてえひめ丸は再びハワイ沖の1800メートルの深海に沈められ、永遠の眠りについた。

家族にとって何も変わらぬ21年

事故から21年。

山口県にある中田さんの実家には、船内から回収された淳さんのスーツや、生徒室のカギなどが変わらず供えらえている。

中田さんの実家には今も船内から回収された淳さんのスーツなどが供えられている
中田さんの実家には今も船内から回収された淳さんのスーツなどが供えられている

「息子に会いにハワイへ…」
その思いも新型コロナの世界的感染拡大で思うようにかなわず一度はハワイ行きをあきらめかけたが、事故から21年目の“あの日”に家族でハワイの海に向き合うことができた。

当時1歳だった淳さんの姪・綾奈さんも、もう22歳。
当時の記憶はないものの事故のことはずっと胸に思っているという。

犠牲者の冥福と航海の安全を祈って

事故から21年となった日本時間の2月10日。

事故海域を臨む「えひめ丸事故慰霊碑」の前で、ホノルル市長やハワイ州知事も参列した慰霊式典が行われていた。

慰霊式典にはホノルル市長やハワイ州知事も参列
慰霊式典にはホノルル市長やハワイ州知事も参列

コロナ禍ということで、現地では「日本からの参列者いない」と思っていたが、中田さん家族の突然の訪問を快く迎えてくれ、式典では当初予定していなかった和男さんと綾奈さんの献花も行われた。

事故海域を臨む公園にある「えひめ丸事故慰霊碑」
事故海域を臨む公園にある「えひめ丸事故慰霊碑」

家族が捧げた花には「淳へ、父より、ハワイに来れて良かった」と。
そして穏やかな海を前に犠牲者の冥福と航海の安全を祈った。

花に添えられた父から息子へのメッセージ
花に添えられた父から息子へのメッセージ

慰霊を終えた和男さんはFNNの取材にこう語った。「海を見ていると息子(淳さん)のことを思い出します。えひめ丸事故は犠牲者家族だけでなく、ワドル元艦長家族ら加害者家族にも癒しようのない状況をもたらしました。何ひとつ戻るものもなく、総括もできない。その中でもハワイの人たちの暖かさに触れ、二度と事故が起きないように願いを込めて慰霊碑をきれいに守ってくれることを本当に感謝しています。」

そして今回のハワイ訪問について、「コロナ禍でハワイに来られたのは本当に奇跡です。本当に来てよかった。淳も喜んでくれていると思います。」

ホノルルの慰霊碑にはえひめ丸から回収した錨(いかり)が置かれ、事故で犠牲になった9人の名前が刻まれている。

慰霊碑に刻まれた犠牲者9人の名前
慰霊碑に刻まれた犠牲者9人の名前

家族にとっては何も変わらない21年…。

中田さん家族は『EhimeMaru』の曲を思い浮かべながら、海に願いを込める。

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【テレビ愛媛 報道制作局長兼報道部長 片上裕治】
【フジテレビジョン LIVE STUDIO局長職兼室長 矢野修至】
【動画編集:中村文威】

片上裕治
片上裕治

テレビ愛媛 編成局長 1992年テレビ愛媛入社、報道部で警察、政治担当記者で現場取材を重ね、ニュースデスクを歴任。記者として福田和子事件、えひめ丸事故なども取材。