宇和島水産高校の実習生ら9人が犠牲になった「えひめ丸事故」。事故から20年がたち、事故を起こした潜水艦のワドル元艦長が「全ての責任は私個人にある」と遺族らにお詫びの書簡を送った。

記事の最後には、ワドル元艦長から送られた書簡の一部を記載している。

「全ての責任は私個人に」元艦長から遺族へ書簡 

英文で書かれたこの書簡は、「えひめ丸事故」を起こしたアメリカ原子力潜水艦のスコット・ワドル元艦長が遺族らに宛てたものだ。

【ワドル元艦長の書簡より】
「こうして手紙を書く第一の目的は、何よりも最愛の家族を失ったご遺族、えひめ丸に乗船して負傷された皆さま(船長、乗組員、生徒)にお詫びをするためです。」

潜水艦のスコット・ワドル元艦長の書簡
この記事の画像(10枚)

2001年2月10日。ハワイ沖で航海実習中だった宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、アメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルに衝突され沈没。

えひめ丸に乗っていた実習生4人・指導教官2人・乗組員3人のあわせて9人が犠牲になった。

ハワイ沖で沈没したえひめ丸

潜水艦「グリーンビル」は事故当時、民間人を体験搭乗させ緊急浮上を行っていて、安全確認が十分でなかったことが事故につながったと指摘されている。

ワドル元艦長も、書簡の中でこう記している。

【ワドル元艦長の書簡より】
「衝突は回避可能であり、艦長として事故を防げなかったのは私が義務を怠ったからです。この事故の全ての責任は私個人にある。」

遺族へ書簡を送ったワドル元艦長

20年前の父子の会話も書簡に…

事故の約1カ月後となる2001年3月、ワドル元艦長は被害者家族らに直接謝罪をした。

2001年3月 ワドル元艦長

えひめ丸の指導教官で事故の犠牲になった中田淳さん(当時33)の両親は、ワドル元艦長の謝罪を受けこう語っていた。

事故の犠牲となったえひめ丸の指導教官・中田淳さん

亡くなった中田淳さんの父・和男さん(2001年3月):
直接 近い距離で本人の誠意を見せていただいた感じで、(ワドル氏の)あの涙を見たときに胸のつかえが降りた気がした

そして、ワドル元艦長は中田和男さんについて、当時、報道で聞いた話としてこう触れている。

【ワドル元艦長の書簡より】
「中田教官が航海に出かける前に父親に話したそうです。
「父さん、もし実習船に何か起こったら、全ての生徒を最初に避難させるよ。生徒より前に逃げ出すことは絶対にないから」。

父親の和男氏はこう答えたそうです。
「それは状況によるよ。お前が救助されて、生徒が救助されなかったとしても…。お前が責められることはないよ」。
その当時、中田和男氏は55歳でした。現在75歳になっておられる。お元気でいらっしゃってほしい」

20年前の父子の会話が書簡に

「悲しい事故、二度と…」遺族と元艦長の願い

中田さんは9日、この書簡を受け取り、ワドル元艦長の思いを受け止めた。

悲しい事故が二度と起こらないように…。
20年たった今も、遺族らは事故の再発防止を一番に祈っている。

事故の再発防止願う

ワドル元艦長も書簡の中で、アメリカ海軍の再発防止策について、「アメリカ海軍の潜水艦乗組員らは、えひめ丸事故の詳細を1年に1度再確認し、3カ月ごとに細かな出来事について再確認している」「訓練など多くの現場でえひめ丸事故から得た教訓は生かされている」としている。

10日、宇和島水産高校では事故の慰霊式が行われた。

宇和島水産高校 事故の慰霊式

事故で帰らぬ人となった9人の犠牲者、そして海に沈んだえひめ丸は、今も航海の安全を祈り続けている。

スコット・ワドル元艦長から送られた書簡

※プライバシーの観点から一部削除しています。

2021年2月9日に寄せて
えひめ丸事故犠牲者の皆様方への公開書簡

ご遺族の皆様へ
宇和島水産高等学校 実習生  水口峻志
宇和島水産高等学校 実習生  寺田祐介
宇和島水産高等学校 実習生  坂嶋富士山
宇和島水産高等学校 実習生  野本勝也
宇和島水産高等学校 指導教官 中田淳
宇和島水産高等学校 指導教官 牧澤弘
えひめ丸無線局長       瀬川弘孝
機関長            古谷利道
一等機関士          西田博

そして、えひめ丸船長 大西尚生
宇和島水産高等学校生徒の皆さまと教職員の皆さまへ

スコット ワドル司令官(退役)
米軍潜水艦USS GREENVILLE (SSN 772)元艦長

関係の皆様へ

米軍潜水艦USS GREENVILLE (SSN 772)と愛媛県立宇和島水産高等学校実習生えひめ丸の衝突事故から本日で20年となります。
2001年2月9日、ハワイ時間午後1時43分頃、潜水艦は私が命じた緊急浮上訓練を実施し、えひめ丸船底部に衝突、約10分後には沈没しました。この事故の結果、9名の命が奪われ、9名が負傷いたしました(生徒と乗組員)。
えひめ丸は深海2千フィートに垂直に無傷で沈んでいました。
この事故でえひめ丸から4名の生徒、2名の教官、そして3名の乗組員が犠牲となりました。事故当日の午後、亡くなった9名のうち8名のご遺体は数か月後に発見回収されました。しかし、水口峻志君のご遺体は、未だ海に残されたままです。

本日こうして手紙を書く第一の目的は、何よりもまず最愛の家族を失ったご遺族の皆様、えひめ丸に乗船して負傷された皆様、大西尚生船長と乗組員の皆様、同級生を失った5名の生徒の皆様にお詫びをするためです。

第二に、米軍潜水艦USS GREENVILLE (SSN 772)元艦長として、この事故は全ての責任は私個人にあったことを明確にしておきたかったのです。
衝突は回避可能であり、艦長として事故を防げなかったのは私が義務を怠ったからです。

また、ここで明確にしておきたいのは、この書簡は読者からの私への共感や同情を求める意図をもって書くのではないということです。
私にではなく、この事故で亡くなった方々の家族や生還者の方々へ、そのお気持ちを寄せていただきたいと思います。

私はアメリカ人ですが、1959年5月20日に日本の(青森県)三沢市米軍空軍基地で生まれました。日本で生まれたことは私の誇りです。私がこの世に生を受けた朝、私の肺は出生地の空気で満たされたのです。私は、三沢の自宅の隣人だった日本人家族の友人タマさんに面倒をみてもらいました。私が発した最初の言葉は日本語でした。27才の時に富士山に登りました。その時には自分が生を受けた国の素晴らしさに心から感動しました。9名の日本人乗組員が亡くなった日に、彼らと共に私の一部も死んでしまいました。私は、事故で亡くなった方々やその家族を裏切ったと感じたのです。

私は、事故以来、羞恥、悲しみ、苦しみ、自責の念を抱えてきました。この思いは私が死ぬまで続くでしょう。

私と私のクルーは、事故直後、えひめ丸燃料室から流れ出たディーゼル油が漂う海面と荒れた波が潜水艦デッキに押し寄せる状況で、生存者の救助活動ができませんでした。潜水艦のブリッジから、生存者の安全そして潜水艦クルーの安全を危険にさらさないために決めたことでした。

一時間後に米国沿岸警備隊が生存者を救助しました。そこで9名の姿が見えないことを知りました。この報告を聞き、これまでに経験したことのない衝撃に襲われました。

翌朝、2月10日土曜日午前、私の潜水艦がパールハーバー海軍潜水艦基地に戻ったとき、私は、妻と13才の娘から、4名の17歳の生徒、2名の指導教官、そして、3名の乗組員が亡くなったことを聞かされました。この時、事態の重大性に大きな衝撃を受けました。同日午後、任務を解かれ、家族の待つ自宅へ戻りました。どうしてよいのか分からない状態でした。犠牲となった9名のご家族の心の傷と深い悲しみをニュースを通して知るばかりでした。

2月10日午後、私は艦長としての任を解かれました。私は潜水艦USS GREENVILLEに戻り、乗組員クルーに最後の話をしました。この痛ましい事故の原因究明をすることが遺族に報いることになることを話しました。そして、調査が始まった際には真実と質問に可能な限りの力を尽くして応えるよう伝えました。真実のみを話すこと、また、明確に応答できない場合には「分からない」と話すよう伝えました。

ご遺族の皆様が11日、日曜日にホノルルに到着しました。私は、太平洋潜水艦司令官室広報担当官Commander Submarine Pacific Public Affairs officer (PAO) に電話をかけ、太平洋艦隊司令官室広報担当官Commander in Chief Pacific Fleet PAOから、私が謝罪のために遺族に面会の機会を与えてもらえるかどうかを尋ねました。一時間後、私の申し出は断られた旨の連絡があり、また、遺族から私への面会は最後に許されることになることを伝えられました。

私はもっと熱心にご遺族の皆様に会えるように努めておけばよかったと後悔しています。他者に危害や損害を与え時には、速やかな謝罪が重要であることは十分に理解していました。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。あの時に、もっと強く謝罪の機会を求めるべきでした。

事故後の数週間に及ぶ捜索救助活動にもかかわらず、不明者の所在は突き止められず、家族は日本に帰国し査問委員会(COI)を待つこととなりました。

私は、日本総領事館に連絡を取り、総領事への面会予約を取りました。海軍の制服ではなく、スーツを着用して一民間人スコット・ワドルとして面会することとしました。私は、総領事館のスタッフに出迎えられました。総領事とお茶をいただきながら、日本で過ごした少年時代の話などをしました。お茶の後、椅子から立ち上がり、総領事の前に立ち深く頭を下げ、手紙(9名のご遺族各々に封蝋した手紙にリボンをかけて)を手渡しました。そして、私が起こした事故を謝罪しました。

私は、総領事に、事故は恥ずべきことでありアメリカ合衆国、米国海軍、米国潜水艦部隊、テネシー州グリーンヴィル市、私のクルー、そして私自身の名を汚すものであることを話しました。

私が総領事館を出るとき、総領事と職員は私の敬礼に対し、敬意と尊敬をもってお辞儀をして下さいました。その日の夕方、私の手紙は日本航空機で日本へと飛び立ちました。
ご家族の第一陣が、3月の第1週に査問委員会を傍聴するため、ホノルルに戻られました。3月7日の午前、査問委員会(COI)3日目に法廷に入り、私と裁判所スタッフを分ける手すりの向こうに着席されたご家族の皆様を見ました。私は、ご家族のお一人に、私はご家族の皆様が来ていることを分かっていますよと会釈をしました。言葉で伝えられなかったのが残念です。

(肖像)画家であるMsリン・マツオカさんは、これを見て、すぐに私に近づき、私が大きな間違いをしたことを注意しました。リンさんは、私は家族の皆さんと話す前に、先ずは謝罪をする必要があると言いました。私は、リンさんに家族の皆さんと会える機会を設け、正しい方法で謝罪する機会を与えてほしいとお願いしました。

3月9日金曜日午後、私は初めてご家族に会うことができました。皆さんの前でお辞儀をして通訳を介して謝罪を致しました。ご家族の話に耳を傾け、質問に答えました。刑事免責(訴追免除)なく証言することを約束しました。ご家族の皆さんに真実を伝える義務があり、それが正しいことだと考えたからです。中田直子夫人(指導教官中田淳さんの未亡人)が、私に手紙をくださいました。手紙の内容はその日の午後、地方新聞で公開されました。

3月14日に、査問委員会(COI)に出席するご家族第二陣に面会する機会を得ました。私は、謝罪し、ご家族の話に耳を傾け、質問に答えました。ご家族は私に証言台に立つよう言われました。私は証言すること断言し、その通り実行しました。

査問委員会(COI)は、悲劇的な死を招いた間違いや過失を突き止めることになりました。私のクルーメンバーは法廷で証言台に立ち証言をしました。真実を述べた彼らを誇りに思いました。

名誉であり正しいことは、証言台に立ち、私がクルーメンバーにしてほしいと願ったことを実行できたことです。約束通り、家族の皆さんとの約束を果たすことができました。

査問委員会(COI)は、徹底して、本事故の誤りと過失を突き止めました。

多方面からの検証の結果、事故は私の過失であることが判明しました。他の誰でもない私に、事故への責任と説明責任があるのです。

アメリカ合衆国海軍は、査問委員会(COI)報告書と証言の徹底的な検証調査を実行しました。事故発生から20年の間、海軍、海軍規律、潜水艦訓練校、潜水艦乗組員訓練のあらゆる場面、アメリカ海軍アカデミー等多くの現場で、えひめ丸事故から得た教訓は生かされています。

米国海軍の潜水艦乗組員、潜水艦の安全運転・航行の任務に就くもの(海軍士官や入隊者)は、衝突と座礁に関するセミナーにおいて、えひめ丸事故の詳細を一年に一度再確認し、3カ月ごとに細かな出来事について再確認しています。

この20年間、私はこの事故について、また、私の失敗/欠点について世界中のビジネス界の方々や聴衆と共有してきました。

皆さんが職場や家庭でリスクを軽減するにはどうしたらよいかを、自分の時間とエネルギーをかけて理解してもらうよう努めてきました。私の生徒や聴衆は、同僚の守り方や従業員やビジネスやコミュニティーを守るための賢い決断の仕方を学びました。

米国やその他の海外のクライアントと一緒に働いてきました。その多くはフォーチュン誌上位1000企業のメンバー、教育者、法執行の専門家、災害や事故の際のファースト・レスポンダー、医療専門家、産業リーダー、数えきれない米国軍関係機関(陸軍空軍現役及び予備兵部隊 Army and Air Force Active Duty and Reserve Units、 米国空軍アカデミー the United States Air Force Academy、the 商船アカデミーMerchant Marine Academy、海軍予備兵訓練部隊 one Navy ROTC unit)です。

聴衆は少ない時で3名、多い時には2万1千人(2003年ハワイフェイスホープ教会 Faith Hope Church Honolulu Hawaii)でした。

決して個人的利益でなく、二度と同じような事故が起きないことを願って、事故のことを多くのに知ってもらいたいために力を尽くしてきました。

聞いてくれる人たちへのメッセージは明確です。間違いや失敗は起きる。その時には、正しいことをすること。自分が危害を与え傷つけてしまった人たちに対し、自分自身の行動を説明する責任があることを自覚し、真実を述べること。誠実な人であれ、自身の行いについて説明ができ責任を取れる人であれということです。

中田淳指導教官が5度目の航海に出かける前に、父親に話したそうだ。
「父さん、もし、実習船に何か起こったら、すべての生徒を最初に避難させるよ。生徒の前に逃げ出すことは絶対にないから。」
父親のカズオ氏はこう答えたそうだ。
「それは状況によるよ。お前が救助されて、生徒が救助されなかったとしても…お前が責められることはないよ。」

その当時、中田カズオ氏は55才であった。現在75才になっておられる。お元気でいらっしゃってほしい。

取材レポーターへの最後にコメントとして、彼は、緑の格子柄のハンカチを取り出し、涙で溢れた目で、「私の息子は、決して生徒を置き去りにするようなことはしない。」と語られた。

読者の皆様が事故を忘れず、この悲劇の犠牲者を弔っていただけることを願って最後に、中田カズオ氏のことを紹介させていただきました。

ご家族のために皆様と共に祈りを捧げたいと思います。
水口峻志君の魂が、ハワイの海上及び海中航行のマリナー(海員)を守り、安らかに眠らんことを願っています。

心からの敬意を込めて

スコット・ワドル
USN司令官(退役)

(テレビ愛媛)