1959年6月30日、沖縄県、現在のうるま市にある宮森小学校に米軍のジェット機が墜落する事故が起きた。

あれから60年が経過し、この事件を風化させまいと立ち上がった当時の在校生たち。NPO法人「石川・宮森630会」と名付け、事故の「記憶」を「記録」する活動を続けてきた。

事故の当事者であり、メンバーである久高政治さん(71)、稲福晃さん(67)、伊波洋正さん(66)の活動に密着。

彼らが聞く当事者たちの声から事故後の惨状、そして事故がその後の人生に与えた影響が明らかになっていく。

後編では、当時のアメリカ軍の記録、パイロットの行く末、また、事故が人生にくらい影を落とした少年の消息を追う。
 

【前編】沖縄ジェット機墜落事故の記憶を残したい…事故“当事者”たちの思い

アメリカ軍の事故の記録は非公開…

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「宮森小学校ジェット機墜落事故」は、児童ら18人が死亡、210人が重軽傷を負った。戦後沖縄の歴史の中で最大の被害を出した航空機事故だ。

当事者であるアメリカ軍は、事故をどのように記録していたのか。

アラバマ州にあるマックスウェル空軍基地では、アメリカ空軍すべての記録を保管している。

事故機が所属していたのは、嘉手納空軍基地。事故が起こった1959年6月の報告書の閲覧を求めたが非公開だった。

アメリカ軍の司令部は、半年ごとに年次報告書を作成している。

しかし、1959年1月から6月の報告書は非公開となり、「秘密扱い」で閲覧は不可。公開できるのは文書の目次のみだという。

公開された報告書の目次の第2章には、“石川の悲劇”と記されていた。ここには何が書かれているのだろうか。

通常アメリカでは、公文書は25年後をめどに公開されるが、60年経っても公開できない理由は何なのだろうか…。

当時のパイロットは今…

630会は、沖縄県内やアメリカの公文書館から資料を収集。証言集の発行とともに、事故に関するアメリカ軍の資料を翻訳しようとしているという。2000ページに及ぶ資料もまた、記憶のピースなのだ。

「航空機事故のパズルの大部分が埋まっていくことにもなると思う。これで事故の様子や状況が、形となって見えてくると思います」(久高)

手を尽くして集めたアメリカ軍の資料には、アメリカでは見ることができなかった、“石川の悲劇”が含まれていた。この資料は、地元うるま市の資料館が入手していたものだった。

そこには事故の経緯が、詳細に記されていた。

1959年6月30日午前10時27分。
事故機は嘉手納基地を離陸。
数分後に、エンジン室に異常が発生。
パイロットは25ポンド爆弾4個を、東シナ海に投下。
爆発を繰り返す機体。
パイロットはパラシュートで脱出。難を逃れた。

午前10時41分。
機体は猛スピードのまま、多くの家屋をなぎ倒しながら宮森小学校に激突。

爆発した事故機F-100は、当時最新鋭の戦闘機だったが、事故の前年となる1958年だけを見ても、168件の事故を起こしていた。

そして、アメリカ軍は事故から3日後、事故原因を「不可抗力」だと発表している。

しかし、うるま市の資料館が入手していた資料には、機体の部品などに緩みがあったと記されていた。

アメリカ軍は、事故の本当の原因がメンテナンスエラー(整備不良)だとわかっていた。それにも関わらず、「不可抗力」と発表し、誰の責任も問えないと結論づけてきた。

“石川の悲劇”とは、一体誰にとっての悲劇だったのか。

さらに、事故機のパイロット、ジョン・G・シュミッツ大尉のその後も追っていく。

アメリカ南部アラバマ州の小さな町でシュミッツは暮らしていたが、彼は2016年10月10日、93歳で亡くなっていた。

シュミッツは事故後1年半、そのまま嘉手納基地に残り、ベトナム戦争にも出撃していた。

シュミッツの息子の妻は「義父は思っていることを心に閉じ込めて、口にしない人だった。心に痛みや辛さがあったからかもしれない。その思いはわからないけれど…」と語る。

シュミッツは軍のパイロットだったことを生涯誇りに思い、周囲に退役時の肩書きである「大佐」と呼ばせていたという。

そして、息子の妻は「ジョンに会えば、あなたが求めるパズルを埋めるわ」と夫であり、シュミッツの息子であるジョンを訪ねるように言ってくれた。

電気関係のエンジニアをしている彼は、山火事の被害を修復するためカリフォルニアに来ていた。

彼が宿泊しているロッジを訪ねると現れたのは、父と同じ名前を引き継いだ息子、ジョン・G・シュミッツさん。

かつては陸軍のパイロットであったジョン。事故のことを、父はどう話していたのか、息子が初めて口を開いた。

「父は関わった戦争のすべての任務や情報について話せなかった。すべてはトップシークレットで、米空軍の管理下にありましたから」とジョンは明かす。

アメリカの軍人たちは、秘密を生涯漏らさないという契約を軍と交わしている。つまり生涯、軍人を貫いたシュミッツは軍の規律を守り抜いたのだ。

「事故のことは、偶然インターネットで知りました。父は事故のことも、小学校の子どもや住民が犠牲になったこと、沖縄のことを決して話しませんでした。けが人がいたことも語りませんでした。ショックでした。すごく傷つきました。まさに悲劇です。父も傷ついていたから、何も話さなかったのかもしれません」

ジョンにこのインタビューが辛くないかとたずねると、「もちろん辛いですが、いつも沖縄とつながりを感じているんです。沖縄で生まれ、故郷だと思っています。沖縄の人の痛みを和らげたい。それは事故を知った私の救いでもあります。私にできることなら何でもしたい」と話した。

ジョンは事故からちょうど3か月後の1959年9月30日に沖縄で生まれている。ジョンもまた、埋められないあの日のパズルを抱えていたのだ。

語れない記憶と残りたい記憶…そのジレンマ

事故で弟を亡くし、母も大やけどを負った又吉京子さん。

90歳になる母に代わって、娘の京子さんが久高さんらに事故の記憶を話した。

あの日、子どもたちを学校へ送り出し、自宅にいた母と弟は、爆音とともに炎に包まれたのだ。

「煙に巻かれて。母自身がなんかもう身体が縮まっていくのがわかったんですって。子ども(弟)を抱いていられなくなって、近くにいた男の人に息子をお願いしたみたいなんですよね。それからもう記憶がないですね、母は」

全身に大やけどを負った母は4か月間入院し、自宅に戻るまで息子の死を知らされなかった。母の体には、今もやけどの痕が残っている。

「胸だけは弟を抱いていたので、やけどしなかった。だから助かったんじゃないかなって母本人は言ってますけど…」

しかし、今も母は自分を責め続け、心と体の傷が癒えることはないという。

「今でもそういう話になると、どうしても涙ぐんで気持ちが高ぶるので。あまりそういう話はしませんね、母ともね」

記録に残すことと、語ることができない記憶を引き出すこと、このジレンマが630会に重くのしかかっていく。久高さんらは、それ以上何も聞くことができなかった。

だが、彼らには長い間、心にしまってきた辛い記憶を、それでも語ってほしいという思いがある。

佐次田貞子さんは、あの日は自宅にいた。

「休みで眠っていたわけ。そうしたら、パーッと音が聞こえた。見たら自宅が燃えていた」

事故直後に撮影された写真に写る貞子さんの自宅。周辺の家などはすべて破壊されている。

貞子さんはやけどを負った。しかし、近くに住む親友は亡くなった。

「生きていたらもう82歳かな」と貞子さんは涙ぐむ。仲が良かった2人は、事故の前日も一緒にいたと言い、「また明日」と言って別れた。道ひとつ隔てて、生死を分けてしまった。

「私の家に泊まっていたら生きていたのにと思うけど、それはもう過ぎたこと。今でも涙が出る。もう思い出したくない。もう今日まで…」

ひとつでも多くの証言を残したい、という思いの一方で、その人たちの痛みを感じずにはいられない。

当時2年生だった大竹昭夫さん。彼もまた、あの日、宮森小学校にいた。

「服もまるっきり焼けて、真っ黒になった女の子です。水を飲んでいたのを覚えているんですよ。そのあとに、ムシロの上で亡くなった人が黒くなったのを見て、血が落ちているのを見て非常にショックを受けて。この2つの記憶が鮮明に残っているということです。夜中に思い出して、夢に出てきて。なるべく思い出さないように、思い出さないようにしてきたんですよ」

恐ろしい記憶から逃げるように、あの日を封印してきた60年だった。

しかし、そんな大竹さんを駆り立てたきっかけがあった。

「普天間の事故がなければ、私も口をつぐんでいたかもしれません。ああいうのを辺野古に作ったら、また同じことがどこかであるぞと、そういう気持ちになったんです」

沖縄で頻発するアメリカ軍機による事故やトラブル。沖縄が本土に復帰した1972年以降、アメリカ軍機に関連する事故は788件(1972年~2019年1月現在)にのぼる。

そのたびに、沖縄の人たちの脳裏には、あの日の記憶が思い起こされるのだ。

大やけどを負った少年は今どこに

あの日、重傷を負ったひとりの少年がいた。名前は「タイラ・タメジ」。

ひどいやけどを負っていたが、その行方が分からず、幾度も630会に情報がもたらされたが、消息がつかめていなかった。

調査を進めていくと、アメリカの医療記録に、少年の名前を見つける。

平良為次、9歳。

平良為次は、頭部と両腕にやけどを負っていた。

630会は証言を得ようと、平良為次を探し始める。すると、同じ名字で行方がつかめない「平良清作」という名前を見つける。そして、伊波さんと一緒に小学校を卒業し、姉がいたという情報もつかむ。

さっそく姉の自宅を訪ねると、「事故あったから運が悪いって、為次から清作にしたはずよ。沖縄で結婚して、子どもがひとりできて、それからすぐ神戸に行った」と明かす。

あの事故がもとで、為次は清作に名前を変え、そして20年前に兵庫県で亡くなったという。

卒業アルバムの写真から「平良清作」を探していく伊波さん。見つけると、彼の顔をしみじみと見つめ「よく覚えている…」と手でなぞり、感慨に浸った。

それから伊波さんは、彼が住んでいた兵庫県宝塚市を訪ね、当時の様子を聞いていく。

宝塚市の元市議である大庭弘義さんは、20年前に清作さんと出会うが、その後ほどなくして、清作さんが亡くなってしまったという。

清作さんが住んでいた街は沖縄県出身者が多く暮らす地域。住んでいたアパートは取り壊され、一軒家が建っている。

「平良さんが生活に困窮されてね、その生活相談で初めてお会いしたんです。いろんな仕事に就いたらしいんです。でも、事故の後遺症で、夏に外で仕事ししたら気を失うようなことが何度もあって、職を変えたんだけど、ほとんど長続きしないということで」(大庭)

あの日、は清作さんの人生に暗い影を落としていたのだ。

平良清作の長男、平良一さんは父についてこう語る。

「事故については、大雑把にしか聞いてないですね。小学校に飛行機が落ちて、頭に火の玉が落ちてやけどしたとか。入院して、1学年留年したと聞いた記憶がある。腕と頭のてっぺんが、やけどではげている状態。それが小学生のときだから、いじめられたことがあったみたいです。結構気にしていました。外を歩くときに、帽子をかぶらないのは見たことがない」

事故は生涯、清作さんを苦しめ続けたのだ。

伊波さんは「平良清作さん、名前変えてるんですよ。清作の前にね。平良為次というんです」と話す。そして、初めて聞き驚いた顔を見せる一さんに「息子さんには言ってなかったんだね」とこぼした。

「あの事故がなければ、もっといい人生だったのかなと思いますね」と一さんは心境を明かした。

清作さんの話を聞いた帰り道に伊波さんは「僕たちがもっと活動を早く始めていれば、清作が生きていたときに、本人と事故の話ができたんじゃないかなと。それは感じるよね」と語った。

事故を風化させまいと、走ってきた10年。

石川・宮森630会の会長、久高さんはこう話す。

「もう解散しようとか、これだけやったんだからいいんじゃないのという人もいる。でも僕らの社会的な使命は終わっていないと思う」

(2019年11月22日放送)

【前編】沖縄ジェット機墜落事故の記憶を残したい…事故“当事者”たちの思い
 

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