1959年6月30日、沖縄県、現在のうるま市にある宮森小学校に米軍のジェット機が墜落する事故が起きた。

この航空機事故から60年が経った。事件を風化させまいと立ち上がった当時の在校生たちによる事故の「記憶」を「記録」する活動に密着。

当事者たちの声から事故後の惨状、そして事故がその後の人生に与えた影響が明らかになっていく。

前編では、この活動をするに至った経緯と当事者たちの複雑な心境に迫っていく。
 

“記憶”が集まって初めて事故の全貌が見える

沖縄県うるま市。人口12万4千人の静かな街に、ぽつんと佇む小さな一軒家がある。

泡盛を販売する店「崎山商店」。そして、ここはあるNPO団体の事務所も兼ねている。

「いつかお酒について教えてあげるよ。泡盛マスターだから。ちゃんと研修を受けてね」と泡盛の知識を自慢するのは、会長の久高政治(71)さん。浦添市役所に勤める、公務員だった。

会計係をしている稲福晃(67)さんは、うるま市役所の元職員。

事務局長の伊波洋正(66)さんは予備校の塾長だった。

うるま市出身の彼らは、60年前の航空機事故を記録に残そうと活動している。

沖縄テレビには、その事故を記録した貴重な映像が残っている。

1959年6月30日。

アメリカ軍のジェット機が当時の石川市(現・うるま市)の小学校に墜落した「宮森小学校ジェット機墜落事故」。児童ら18人が死亡、210人が重軽傷を負った、戦後沖縄の歴史の中で最大の被害を出した航空機事故だ。

そして、いま、この事故の記録を残そうと奮闘する彼らも、あの日ここにいたのだ。

宮森小学校を訪れた3人。

当時1年生だった伊波さんは「西側の方からドンと音が聞こえた。今でも鮮明に残っている。ドンッって」と記憶をたどる。

当時5年生だった久高さんは、「周囲が真っ赤になったというので驚いて、こっち側の土手に逃げたと」と振り返る。

当時2年生だった稲福さんは、「多分、自分と同じぐらいの歳の子が、真っ黒に焼けて。怪我した子を見たのは1人だけです。その子だけ」と語る。

だからこそ、3人は事故が起こった6月30日を忘れないという思いを込め、NPO法人「石川・宮森630会」と名付けて活動を続けてきた。

「僕はよくパズルに例えるんだけど、あの時1500名の子どもたちがいた。パズルが1500あった。私もその1つ」(久高)

バラバラになった記憶というパズルのピースを拾い集めて、彼らは記録に残してきたのだ。

事故体験者が抱える複雑な思い

3月のある日、伊波さんの同級生、当時の1年生たちが集まり、事故当時の記憶を語り合った。

「記憶のままに、自分の中に残っているそのままを言ってほしい」と促す伊波さん。

「ドンッと音が聞こえて。ものすごい音が聞こえて、教室のガラスがビキビキ響き始めて。この路地の辺りに、すでに何人か子どもたちた寝かされていて」と話すのは、当時1年生だった宮城正敏さん。

同じ事故を体験していても、刻まれた記憶は異なる。

聞き取りを通して、あの日の記憶のパズルがだんだんと埋まっていく。

少し遅れてやってきたのは、当時1年4組だった根路銘民子さん。彼女は長年の思いをやっと口にした。

「630会を立ち上げた時も、なんでこんなことするのかなって。忘れたいのにわざわざって最初は思った。慰霊祭も参加しなかったし。前回は参加して、涙が出てしょうがなかった。やっぱり伝えないといけないのかなって…」

60年経った今でも、あの日の記憶を語ることは複雑な思いがこみ上げるのだ。

辛くても残さないと歴史に埋もれていく

630会は事故から50年目の翌年、2010年に設立。

宮森小学校の関係者たちが立ち上げ、賛同する人たちの会費や寄付で支えられている。

これまで630会が聞き取ってきた体験者たちの声は冊子としてまとめられ、事故から60年目が経った2019年(取材時)には4冊目の証言集が作成されるという。

630会は、関係者に電話で依頼をしていく。

事故当時の話を聞きたいと説明をしていくが、「少しも思い出したくない」、「そんなに話せる話ではない」と断られてしまい、なかなかうまくうまくいかない。

交渉を続けていく一方で、あの日を知る彼らは、語らない人たちの心の傷がよくわかっている。しかし、あえて記憶を引き出さなければ、あの日は、歴史の中に埋もれていってしまうのだ。

「当時、学校に1500名いた。家族も入れると3000~4000名のあの事件の体験者がいるわけ。これをひとつのパズルに例えると、1500ぐらいピースがあるわけさ。それを埋めていくというのが、やっぱり事故の証言なんだろうと思うので、だから、パズルはできるだけ多く埋めていくべき。そうすることによってこの事件の全容が、そこにいた人たちの気持ちとか感情も含めて、この事故の姿が浮き彫りになるんだろうと思う」(久高)

石川・宮森630会の3人が、あの日見た光景とは

60年前のあの日、彼らはここで何を見たのか。

実は久高さんは、あの日のことをほとんど覚えていないという。

「大きい音に驚きはしたけど、燃えている場所とか、騒然となっている様子は見ていないから。僕はジェット機事故の記憶は、他の人より残っていない」

稲福さんは大きなフクギの木のそばにある教室にいた。

「窓がもう真っ赤になっていたんですよ。爆発と同時に窓のガラスが多分何枚か割れていたんだと思います。ガシャンという音がして、すごく真っ赤になったんですよ」と話す。

伊波さんは路地を歩いていた。そこで、忘れられない光景を目にしていた。

「ここの路地は僕にとってずっと忘れられない。路地の真ん中ぐらいに来た時に、右手の方からおばさんが、血相を変えてね。手押し車を押しながら、僕の右側を行くんですよ。戸板に乗っていたのが、男の子で真っ裸でした」

この事故で、小学生11人、周辺住民6人が死亡。のちに後遺症で1人が死亡し、210人が重軽傷を負った。

残されている映像を撮影したのは、事故直後に現場に駆けつけた、沖縄テレビのカメラマンだった故・宮城普滋さん。

アメリカ兵が現場をすべてコントロールする中で、憲兵に呼び止められた宮城さんは、空のフィルムを渡して映像を守ったという。

「カメラを開けろと言わなかったので助かったんだけどね。捕まったら全部フィルムを抜きとられてしまうから」

1972年の本土復帰まで、沖縄の行政・立法・司法という施政権は、アメリカ軍の統治下にあったため、当時の沖縄に報道の自由すらなかったのだ。

そして事故から3日後には、アメリカ軍が事故原因を「不可抗力」とだけ発表した。果たして、本当にそうだったのか。

後編では、当時のアメリカ軍の記録、パイロットの行く末、また、事故が人生にくらい影を落とした少年の消息を追う。

(2019年11月22日放送)