自然を相手に1日1日を慈しみながら生きる能登の人々。今から約30年前、「原発」問題に翻弄されながらも、変わらない日々の暮らしを営む石川県珠洲市の住民たちがいた。
フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。
今回は第2回(1993年)に大賞を受賞した石川テレビの「能登の海 風だより」を掲載する。
(※記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)
日々を精一杯生きる珠洲の住民たち
この記事の画像(16枚)日本海に大きく突き出した石川県の能登半島に位置する珠洲市。冬の能登は大陸から吹き付けられる強い風にさらされる。
能登の人々は「能登に吹く風は幸いを運ぶ風、打ち寄せる波は恵みをもたらす潮の満ち」と、昔から信じてきた。
1992年の春、魚の行商に励む70代の女性と出会った。
市場で競り落とした魚を荷台に積み、2日1度お得意さんを回るという。本格的に行商が始まる季節は春。海が荒れる冬は魚の水揚げも少なく、そんな時は自家製のタラの干物を持って回る。60歳の時に行商を始めた女性は、前年に夫を亡くし、一人暮らしをしていた。
「年がいくと食べこぼしもしたり、どうしよう」と体中が痛いと言いながらも薬を飲み、「でもまだ死なれんな」とこぼす。ただ“腹いっぱい”やりたいことはやったため、今からやりたいことはないそうだ。
珠洲市で唯一の助産院で働く70代の女性は、この地で助産院を始めてから50年近くになる。「お産は病気ではない」という考えから、薬も注射も使わない自然分娩を実施していた。
戦後間もない農村や漁村では、女性は大切な働き手でもあり、産後でも休養することができなかった。せめて産後しばらくの間は、母子ともにゆっくりと休養できるようにと、当時では珍しい入院設備を備えた助産院を開業。
彼女が取り上げた赤ちゃんは1万人を超え、「みなさんの喜びの顔を見ると疲れが吹き飛ぶ」と笑った。
「原発」問題が生活を脅かす
夜明けとともに海へ出て、わかめ漁をしていた80代の男性は冬の間、網仕事をしながらじっと春が来るのを待ち続けていた。
大量に獲れたわかめに上機嫌の男性は、「本当に久しぶり、車潰れるね」と嬉しそうにわかめを荷台に乗せる。若い漁師のように仕事は早くこなせないが、根気は誰にも負けない。妻も男性を助け、わかめを海の風で干す。
2人が出荷する珠洲北部漁業組合には、「原発対策事務局」の看板も掲げられ、原子力発電所の建設計画の窓口が設けられていた。
当時の珠洲市では、高屋地区と寺家地区に原子力発電所をつくる計画があり、関西・中部・北陸の電力会社で100万キロワット級の原発をそれぞれ2機ずつ建設しようとしていた。
「過疎からの脱却と地域振興」をうたい文句に持ち上がった計画で、町は推進と反対で二分された。原発計画は高屋の町、76戸すべての移転を前提にしていたのだ。
珠洲市市役所は原発の視察旅行を頻繁に実施。多くの市民を関東や九州、北海道などの原子力発電所へ送り込んだ。
国から市に落ちた原発促進事業費は年間1億8千万円余りで、そのほとんどが“原発ツアー”などに使用された。珠洲北部漁業協同組合に設置された2千数百万円の気象観測装置は、関西電力から寄付されたものだった。
様々な形でお金が町に降り注いでいた。
当時の組合長も「全面的に、無条件ではないけれどやるつもり」と、原発の受け入れは整っているとしていた。
中部電力と関西電力は珠洲市に現地事務所を開設。それぞれ30人ずつの立地部員を置いて、地元の説得工作にあたった。戸別訪問する電力会社の立地部員は「うちを動きたくない理由はわかるけれど、それだけで将来生活できるかどうか、そういうこと」などと話しながら、1軒1軒訪ね歩き、住民を説得した。
1992年の春は、こうして過ぎていった。
自慢の山が奪われる…
1992年夏、電力会社の職員が住民の説得を続ける一方で、建設予定地の土地の借り上げを進めた。
関西電力は10年契約、中部電力は5年契約で、共に借地料は5年分前払い。好条件を手に直接出向いて、住民を説得した。
わかめ漁で生計を立てていた男性の住む高屋地区は、海の近くまで山が広がる。その山を切り拓いて、斜面を畑として耕してきた。ところが4年前から土地のあちこちにロープが張り巡らされた。関西電力が契約した土地だ。
珠洲市で原発計画が浮上したのは1975年。市が立地要望書を国に提出したことから動き出す。86年には市議会の誘致決議があり、4年前の88年には関西電力が現地調査に着手した。
しかし原発に反対する住民が白紙撤回を求め、市役所に40日間座り込んだ。このため調査は1カ月余りでストップして以来、中断した。
戦後、身を粉にして働いて山を手にした男性にとって、山菜やキノコが採れる自慢の山が失われそうになっていた。調査に危機感を募らせた地元の人たちは、電力会社に対抗するべく土地を共同所有するようになる。
用途不明の土地と電力会社のつながり
珠洲市から3キロ離れた輪島市町野町大川の海辺には、学校の校舎のような異様な建物が建っている。
町の人たちは「牛舎として建っている」と聞いていたが、そのように使われた形跡はない。門柱には企業Bの牧場であることが示されていたが、人や牛の気配もなかった。
企業Bは市議会議員を務めていたA氏の会社だ。1974年に県議会で「能登半島のエネルギー基地化構想」を提言した後、1977年からA氏は大川一帯の土地を買い続けてきた。
大川周辺でA氏が買収した土地は、全104万平方メートルにも及ぶ。その内訳は、A氏の名義の他、企業B、地元の人とA氏の共同登記の土地、大川から5キロほど離れた山側の土地は企業Bの不動産関連会社の名義で買われた。
一方で、A氏は1990年に関西電力病院で死去。生前のA氏と親しかった人は、「大川の集落のすべての土地を買う予定だったのではないか」と話していた。
企業Bなどの代表取締役でA氏の次男は、電話で土地の話は「大きなお世話や」と突っぱねた。
A氏が買収した土地には関西の企業や個人から約10億円余りの根抵当権が付けられた。実勢価格の10倍を上回る4億5千万円の根抵当権を付けた大阪の不動産会社を訪れると、女性が一人いるだけで社員は誰もいない会社だった。
企業Bには京都に住む代表取締役がいるようで話を聞きに行くと、「企業Cさんに係がいます」とだけ話した。米穀店と不動産業を営む企業Cが、この土地の利用計画書を知っているという。
以前は別名だったこの会社の役員欄には、代表取締役の家族が名前を連ねていた。そして監査役には、当時の関西電力の常務取締役の名前があった。
企業Cは、関西電力で原発建設を計画している和歌山県日高町の小浦周辺でも、約30万平方メートルの土地を買収していた。
票が合わない?荒れた珠洲市長選挙
1992年も冬になり、北西の季節風が吹き始め、海の冷たさが増した。
前年の11月2日、同じ能登半島の志賀町で原子力発電所の試運転が開始。北陸電力の志賀原子力発電所は計画発表以来、試運転まで25年の歳月がかかった。珠洲市同様、地元の反対が強かったからだ。
珠洲市での現地調査の「反対」派の先頭には、地元の女性たちや漁民が立っていた。
年が明けた1993年2月7日、能登半島で地震が起きる。「能登半島沖地震」だ。被害は甚大で、道路が陥没したり、住宅が壊れるなどの被害も出た。
地震が少ないと言われてきた石川県だが、1993年までの8年間に能登半島沖で起きたマグニチュード6前後の地震は3回。能登半島沖の日本海に大きな活断層がある可能性も出てきた。
助産院を営む女性は、「(地震は)天災だから仕方ないけど、こんなところに原発できるのかと思って。それしか思い浮かばなんだ」とこぼす。
93年4月、原発建設が争点となった珠洲市の市長選挙が行われた。珠洲の豊かな自然を守ろうと訴えた“反対派”の樫田準一郎候補と、原発を推進する国や県、市の支持を受ける現職の林幹人候補の一騎打ち。結局、現職の林氏が再選を果たした。
ところが開票結果を巡って問題が起きる。無効票と有効票を合わせると、投票総数が16票上回ったという。
「票数が合わないのに当選を確定するのはおかしいのでは?」と樫田陣営から抗議の声が飛んだ。
選挙管理委員会は「計算中」と繰り返し、開票所以外のところでは正規の立会人もつけずに密かに投票録の再点検をするなど、集計作業は最後まで疑惑のつきまとうものになった。
開票作業は2時間にも及び、選挙管理委員会の職員以外の人物も中にいた。このことが一層、市民の不信感を募らせることになる。
開票から2日目、問題への対応を協議している最中に、選管は職権で無効票だけの点検を開始。そして「無効票の計算ミス」などと説明し、数が合わないまま処理した。
原発問題、選挙の騒動など、政治が荒れても、珠洲市で暮らす人々の生活は変わらない。降り注ぐ太陽と優しい風、寄せては返す波に抱かれ、能登の人たちは生き続ける。
(第2回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 『能登の海 風だより』 石川テレビ・1993年)
1993年の市長選においては、樫田陣営が選挙無効の異議申し立てを行い、1996年、最高裁判所まで進んだ裁判で選挙の無効が確定した。その後2003年、中部電力、北陸電力、関西電力の3社から珠洲原子力発電所計画の凍結が発表された。
計画浮上から28年目のことだった。