2011年の東日本大震災は甚大な傷跡を残し、宮城県石巻市では、海岸から300メートルの場所にある旅館「美浦旅館」も津波に飲まれた。店を守ってきた名物大将は、津波への怒りを力に変えて再起を目指した。
フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第22回(2013年)に大賞を受賞した仙台放送の「負けねど!津波 ~被災旅館再生記~」を掲載する。
震災で営業休止になった旅館を再興しようと奔走する、館主・三浦啓さん。後編では、被災者でありながら被災者支援を続ける三浦さんの思い、悲願である旅館の営業再開に迫った。
(記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)
三浦さんが思う「本当の意味での被災」
この記事の画像(20枚)2011年11月となり、震災で営業休止に追い込まれた「美浦旅館」の再建を目指す、三浦さんの戦いも8カ月が経過していた。旅館の修理は進み、本格的な冬の訪れを前に大きく開いていた壁の穴もようやくふさがった。
被災者でありながら、被災者支援を続け、自分を支えてくれた仲間たちとボランティアチームを作っていた三浦さんは11月のある日、仲間たちと会合を開いていた。
「やってもらうだけでなくて、自分もできる範囲でボランティアをする。そのことによって初めてこの被災がどんなものだったか分かると思う。みんなで下を向いてないでやった方が、本当の意味での被災が分かると思う」
旅館には九州から工事関係者が駆け付けていた。震災当日に旅館に宿泊していて、津波で家財道具や車などを流されたのだという。一日でも早く泊まれるようにと、ボランティアで雨漏りや壁などの修理をしてくれた。
こうした協力で、当初5000万円と言われた旅館の修繕費用は半分に収まることがわかった。銀行からの融資にも見通しが立った。しかし、立ち退きへの不安は残ったままだ。
2011年11月。石巻市による地権者への説明会が開かれ、被災した土地の利用計画が明らかとなった。三浦さんの旅館のある場所は「産業ゾーン」に指定され、住宅などを新たに建てることはできなくなった。
この時点では旅館が産業に含まれるのか曖昧だったが、市はその後条例を変更し、旅館の新築も認めないことになった。
「立ち退きという考え方だよね。ただ、その間何年くらい、商売できるのか。せめて復興がある程度終わるまでの間だけでも、旅館業を認めてもらえるとありがたいんですけど。実際仕事に来る人が泊まる所がなくてみんな困っているわけだから。格好いいこといえば、旅館をやることによって復興の一つを担うことができるので。それができるかね」(三浦さん)
2012年1月。三浦さんは新年早々、ボランティアに出かける準備をしていた。乗り込もうとしていたのは一台のトラック。被災者支援のために買ったのだという。石巻市・北上地区に向かい、住宅の床の張り替え作業を手伝った。
「私の場合は今回津波に遭ったみんなから比べたら、不幸らしい不幸ではないわけであって。やはり家族を亡くした人は本当になんとも元気のつけようがない。言葉もかけようのないくらい気の毒だと思うんだけれども。我々家族は生き残ったものだから。生き残った以上何かしなければ。でも楽しいよ、楽しいな。見ず知らずの人間と一緒に労働できるなんて、ありえねえど。みんなで来てやるとなんか爽快感ありますよね」(三浦さん)
ボランティアが忙しくなり、旅館の修理は遅れているという。三浦さんは「震災から1年以内」の営業再開を目標とし、「この2カ月をどのように最後のスパートをかけて第4コーナーを回ったところで、どのように自分で納得して、1年間すませてやるか。津波の落とし前くらいはつけなきゃいけないから、最後は。それはあるな」と決意を示した。
震災から1年…人々の祈りと三浦さんの思い
2012年3月11日。震災から1年が経ったこの日、石巻市の日和山公園では人々が犠牲者に黙とうを捧げていた。三浦さんたちも旅館で祈っていた。
「本当に昨日のことというよりも、今っていう感じだね。1年たって。ただ、1年間でいろいろな作業だとか考えると長いということはあるけども、長さと短さが常に。なんかこう、一緒にあるような感じするね。みんなどうしているかね、今日は…」(三浦さん)
震災から1年での旅館再開は間に合わなかったが、ボランティアの人たちが激励会を開いてくれた。建物には新しくなった「美浦旅館」の看板も取り付けられた。
2012年5月。旅館の修理は日を追うごとに細かい作業になっていた。完成までもう一息だ。
営業が再開すれば当然忙しくなる。三浦さんは、これまでの日々をマラソンに例えて「(旅館の)完成がゴールみたいなものなんだけど。またすぐ走れって言われてる(笑)。しかしよくここまで来たね。不思議だね。やればできるんだな」と感慨深げな様子だ。
そして「実はね、怒りだったのよ、俺。怒り。怒りだな。ちくしょうっていう、エネルギーだったんだろうな」とつぶやいた。
動力源はやり場のない怒りだった。
2012年9月。三浦さんは3週間ほど作業を休んでいた。お盆明けの頃から元気がなくなり、酒も飲まなくなって、横になることが多くなったという。
妻・麻由美さんは「ちょっと疲れちゃってるみたいですね。引きこもり、プチひきこもりに。そのまま突っ走っちゃうから事切れちゃうんですよね、きっと」と心配していた。
三浦さんに聞くと、作業が細かくなったこともあり、3月頃から疲れていたという。
「遅々として進まないというんですか。でもやっぱりそれだけでないよね。パワーが落ちてしまったという感じするね」
いつになく、元気のない様子だった。
そんな気持ちを奮い立たせるかのように、伸びきっていた髪を短髪に戻した。元の生活に戻ることに不安があるわけではないが、気持ちの踏ん切りに悩んでいた。
震災から1年9カ月を経て取り戻した日常
三浦さんの旅館が営業を再開したのは、それから3カ月後の2012年12月。多くの人たちの思いと力を受けて、ようやくこの日を迎えた。1階には、かねてから自慢の大浴場も復活。
12月1日。旅館の台所には三浦さんの姿があった。1年半以上も本来の仕事から離れていたため、料理を作れないのではないかと不安だったが大丈夫だったとおどける。
営業が始まれば仕事はお盆も正月もなく続くという。どう感じるか聞くと「はっはっは。うれしい。何度この日を夢見たことか」と笑った。
震災から1年9カ月を経て、ようやく取り戻した三浦さんの日常。一方、石巻市は旅館を含む一帯を災害危険区域として正式に告示。将来的な立ち退きの不安はさらに強まった。
それでも三浦さんは「でもなあやらざるを得ないよ。それがたとえ2年でも3年でも4年でも。どっちにしてもやりますよ」と話した。
営業再開から半年後の2013年5月。久しぶりに三浦さんの旅館を訪ねると、トリやカメなどの新しい家族が増えていた。
2012年夏から旅館を手伝っている従業員の男性は、もともと三浦さんが出していた居酒屋の常連客だった。三浦さんの人柄に惚れて、料理の修業中だ。
「自分の父親も震災で亡くなったんですけど、父親みたいな感じですよね。なんかあって相談に乗ってくれる人なので。自分もいつかやっぱり店をやりたいと思ってたんで、それで勉強も兼ねて。使ってほしいっていうのは、こっちからもお願いして」(従業員の男性)
料理の注文を取っているのは、長女・えりさん。震災後は隣町のアパートで暮らしていたが久しぶりに戻ってきた。
一方、3人の息子たちは旅館に戻ることを拒んだという。
三浦さんに聞くと、旅館に戻ることをめぐって大げんかになってしまったという。
「誰もついてこなかった。これ(犬の菊千代丸)だけだ。情けない(笑)。ほんでふて寝してたんだよ。誰か一人くらい迎えにくると思ったら…何が!誰も来ない…」(三浦さん)
旅館は営業再開以来、連日盛況。人気の秘密はボリュームたっぷりの料理だ。夕食は食べ放題でお寿司やラーメン、焼き鳥、ピザなど、多彩なものを三浦さんがその場で作る。
宿泊客からは好評の声ばかり聞こえてくる。三浦さんは、調理場でお酒を飲みながら「俺が許してもこの手(グラスを持った手)が許さない」と冗談を飛ばしていた。
その後のある日、三浦さんのそばには子猫の姿があった。また新しい家族が増えていた。
喧嘩はしたが息子たちはみな元気だという。旅館の次は、父子関係の再建となるだろうか。
(第22回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 「負けねど!津波 ~被災旅館 再生記~」仙台放送・2013年)
美浦旅館は現在(2022年5月時点)も同じ場所で営業を続け、旅行者、働く人たちを支え続けている。