2011年の東日本大震災は甚大な傷跡を残し、宮城県石巻市では海岸から300メートルの場所にある旅館「美浦旅館」も津波に飲まれた。店を守ってきた名物大将は、津波への怒りを力に変えて再起を目指した。
フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第22回(2013年)に大賞を受賞した仙台放送の「負けねど!津波 ~被災旅館再生記~」を掲載する。
館主・三浦啓さんは、震災で営業休止になった旅館を再興しようと奔走する。前編は一家を通じて、日常生活すらままならぬ被災者の実情、それでも前を向く人たちに迫った。
(※記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)
震災前の暮らしを取り戻すための戦い
この記事の画像(16枚)三浦さんが経営する旅館「美浦旅館」は2011年の東日本大震災で津波に飲まれ、営業休止に追い込まれた。その日から震災前の暮らしを取り戻す、不器用で熱い戦いが始まった。
旅館は海岸から300メートルの場所にあり、震災まで妻と10代から20代の4人の子どもたちとで暮らしていた。幸い全員が避難して無事だったが、建物は2階まで津波を被った。
避難所を経てアパートに移り住み、約3カ月後の2011年6月に妻と旅館に戻った三浦さんだったが、築45年の建物は大きく損壊し、今にも崩れ落ちそうだった。
「最初ここに来た時、もう下は全部がれきで。天井くらいまで荷物がひっくり返っている状況でさ。どうしようかと頭を抱えて、1週間くらいふてくされて、2階で酒飲んで寝ていたのよ。ところがある日、悩んでいてもしょうがないから『なんとかなるだろう』と、シャベルを持って動いたら突然ボランティアが来てくれたんですよ。次の日に」(三浦さん)
連日、全国から駆け付けてくれたボランティアの姿を見て、三浦さんは人生観が変わったという。
しかしこの地域は震災後に建築が制限されてしまい、旅館も修復する分には問題ないが、一度撤去をしてしまうと、再度の建築許可が下りない状況となっていた。
震災後、新しい家族ができた
2011年7月。三浦さんは自らの手で旅館の修理に取りかかっていた。震災後、被災地では建築業者の不足が深刻となったため、できるものは自分の力でやることにしたという。
大工仕事は一度もしたことがないというが、つらい状況でも明るく、冗談をいいながら修理を進めていく。三浦さんは、被災者“らしく”見えないのが悩みなんだと笑う。
傍らで作業を手伝う妻・麻由美さんは「自分の主人を褒めるのもなんですけど、頼もしいなって思います。お父さんが泣き言を言わないから私も言っていられないし、お父さんが泣き言を言わないから、皆さんも集まってくれるかなって。私はそう思っています」と話した。
三浦さんの所には次々と誰かが訪ねてくる。互いの安否を確認したり、情報を交換したり、励まし合ったり。それは震災後の被災地の日常だった。
三浦さんが旅館業を始めたのは25歳のときだ。亡き父・幸右ェ門さんの後を継ぎ、客室15部屋の工事関係者のための小さな旅館の館主となった。
組織に縛られることが苦手な三浦さんにとって、この仕事は性に合っていたという。
震災後、三浦家に新しい家族が増えた。長女・えりさんが道ばたで保護した、オスのシェパード。警察・保健所などに問い合わせたが飼い主は不明だったため、「菊千代丸」と名付けて世話をすることになった。
三浦さんと麻由美さんは当初、小さな犬だと思っていたため驚いたが、避難所にも入れることができないため、三浦さんも参ってしまったという。
「しょうがないから校庭で車の中で一緒にずっと、寝てたんですよ。ここ(旅館)にきたとき最初は犬と二人で来たんだけども、一緒に2階で1週間くらい寝てたけども。明かりも何にもない時にこの犬で助かったね。やっぱり安心だったね」(三浦さん)
暑さにトイレ問題…被災地の実情
2011年8月。石巻市でも猛暑が続いていたが、三浦さんの旅館がある地域は水道・電気などライフラインの復旧が遅れていた。三浦家ではボランティアから届いた蚊帳を使い、月夜の下で寝ていたが、明かりがなくても意外に慣れるものだと明かす。
麻由美さんが困っていたのは、トイレ問題。近くのコンビニを借りることもあるが、三浦さんはシャベルを持っていき、そこらで済ませてしまうこともあるという。
石巻市では自炊困難な在宅避難者への食事支給が11月まで継続され、三浦さん一家にはアパートで暮らしている子どもたちの分を含め、家族6人分の弁当が支給されていた。
震災後、無収入となった三浦さんは義援金と少々の貯えを切り崩して生活していた。お金がないのは慣れているため、心配はしていないと話す三浦さん。妻・麻由美さんも「貧乏は好きじゃないけど慣れている。お母さんの座右の銘です」と笑い飛ばした。
そんな一家にまた、家族が増えていた。ミックス種のオス猫で「綱吉」。
「猫は悪いど。犬をバカにすんだよな。ここまで来れば大丈夫だというところでわざとニャーンと泣くもんだから、(菊千代丸が)怒っちゃって怒っちゃって…」
「疑う力よりは信じるパワーの方がある」
2011年9月。大震災から半年が経過し、旅館の修理は本格的な段階に入った。他県の建築業者が泊まり込みで、ボランティアで行ってくれている。
旅館の周囲では被災した建物の解体や撤去が進んでいた。環境が整わない現地での再建を諦めたり、通学通勤の事情で別の街へ移るなど、同じ被災者でもそれぞれに事情は異なった。まるで旅館を取り囲むように、更地が広がっていった。
旅館の仕事には“場所”が必要であること、幸いにも建物が残ったこと、ボランティアの人たちに世話になったこと。三浦さんはこうした理由を挙げ、ここでの再起を決意していた。
「やれない苦しみでなく、やるための苦しみというか。目標があるから不安はあるけども、目標の方がその不安を抑えてしまうというのかな、もしかすると。必ずできるという可能性はまだないんだけど、疑う力よりは信じるパワーの方があるでしょう。すべてそうだと思う。人を疑って生きるよりは信じた方がそれはパワーがありますよ」(三浦さん)
被災者でありながら被災者支援を行う
2011年10月、この頃から旅館は他県からのボランティアの中継基地になっていた。三浦さんは被災者でありながら、被災者支援の活動をするようになっていた。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんというやつですよ」(三浦さん)
私財を投げ打っておこなう活動に、麻由美さんが「馬鹿だべと思いました、私。正直な話」というと、娘のえりさんも「思うよね」と同調する。
この日は石巻市・河北地区を訪れ、一人暮らしのお爺さんの自宅の屋根の張り替えを手伝う。
「助けられる側の人間は助ける側に立ってみて、初めて自分のことも見れることができるし。2つやってみないとわからないんじゃないかなと思ったんだな」(三浦さん)
周囲の人はそんな三浦さんを「ああいう大人になりたいですね」「人間としてすごいなって思いますね」とたたえる。麻由美さんは「若い頃はそれがよかったんでしょうね。(三浦さんは)バカですよね、やはりバカだと思います」と言い、微笑んだ。
石巻市・釜地区では、立木伐採を手伝いつつ、震災の被害を受けたという女性を励ましてもいた。
「当事者じゃなきゃ、どうしてもわかることができないというか。きっとそういうことで、ボランティア、助ける側の人間も結構悩んでいるんじゃないかな。やっぱりやってみて非常によかった。被災者同士だから、津波の時も同じような状況にいたものだから、同じ苦しみを味わってるんだよね。腹を割って話せるというところはあるだろうな」(三浦さん)
旅館の方はどうなっているのか。聞いてみると「本当は早く直さなきゃならないんだけども。関わってしまったら逃げられないでしょ」と豪快に笑い飛ばした。
後編では、被災者でありながら被災者支援を続ける三浦さんの思い、悲願である旅館の営業再開までに迫る。
(第22回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 「負けねど!津波 ~被災旅館 再生記~」仙台放送・2013年)