「女が学問をすれば生意気になる」「結婚が遅れる」などという男尊女卑の考えが根強い。地方ではとくにその傾向が強い。そんな古い思考の親たちが好みそうな、良妻賢母教育を方針とする日系の女学校でも、地方都市ではどこも苦戦していた。そのなかで、田舎ではいまだに邪教のイメージも強いキリスト教系の高田女学校に、創立当時の2倍にもなる60人以上の生徒が在籍していたというから、これはかなりの大健闘といえる。

地方にも欧化や文明開花の波が押し寄せてきたタイミングで“ハイカラな女学校”のイメージ戦略が上手くハマッたようだった。

学外では廃娼運動に力を入れる

高田女学校には親元を離れて入学してくる娘も多く、そのため学校敷地内に寄宿舎が完備してある。和もこの寄宿舎に住み込んで、生徒取締役と舎監を兼務した。が…学校の仕事よりもむしろ学外の活動が忙しい。

当時、高田では廃娼運動もさかんだった。明治19年(1886)に、アメリカの女性キリスト教禁酒同盟(WCTU)の影響を受けて東京婦人矯風会が設立された。禁酒だけではなく、公娼制度などの社会悪を正そうという活動も広げていた。その会頭には、和が桜井女学校の看護婦養成所で学んでいた頃の校長・矢嶋楫子が就任していた。

和も高田に来てからこの活動に参加するようになる。正義感の強い彼女には、いまだ公然と売春がおこなわれていることが許せない。かなり前のめりになっている。

高田城。高田は城を中心に形成された城下町だ(筆者撮影)
高田城。高田は城を中心に形成された城下町だ(筆者撮影)

明治5年(1872)には「芸娼解放令」の通称で知られる太政官布告により、人身売買の禁止と芸娼妓の解放が命じられた。しかし、売春を禁じる法律はない。遊郭は各府県から「貸座敷」として引きつづき営業を許可され、娼妓たちは「自ら志願してきた者」として登録する。行政が売春を認めて管理する公娼制度が確立された。

芸娼妓は自らの意思で売春業に従事し、貸座敷と提携して商売をする個人事業主であり、いつでも自分の意思で廃業できる。というのがタテマエだが、実際には前借金を盾にとって業者は娼妓を拘束する。しかし、行政側は“自主契約”“自発的就業”と見なして介入してこない。結果、芸娼解放令は名ばかりザル法に。女性たちの受難はつづくことになる。