そうマリアから言われた和は、子供たちを養うため単身赴任することに。当時はまだ信越線も全通しておらず、雪深い高田はまるで外国のように遠く感じられる場所だ。それだけに、かなり悩んだ末の決断だったという。

新職場はハイカラお嬢様学校

明治15年(1882)に、お茶の水女子大学・お茶の水女子大学附属高等学校の前身である東京女子師範学校附属高等女学校が設立され、これをきっかけに女子の中等教育をおこなう学校を「高等女学校」と呼ぶようになる。その制度が整備されたのは明治32年(1899)に高等女学校令が制定されてからのことだ。それにさきがけて、明治20年代にはすでに、公立や私立の女学校が都市部を中心に多く創設されるようになる。

プロテスタント系のキリスト教会は、もともと女子教育に熱心だったこともあり、女学校経営にも積極的に参入していた。明治22年からの10年間を見ても、全国に30校以上のミッション系女学校が新設されている。

高田女学校跡地。和が来た頃の校舎があった場所(筆者撮影)
高田女学校跡地。和が来た頃の校舎があった場所(筆者撮影)

高田女学校の創立は明治21年(1888)、地方の女学校としては先駆的存在だった。修業年限は4年で、教科は英語、漢文、唱歌、地理、歴史にくわえて、聖書や讃美歌などのキリスト教に関する科目もある。当時は裁縫や料理などの家政を中心とした「良妻賢母」教育を方針とする女学校が大半、高田女学校のように普通教育を重視する女子教育をおこなう学校はとくに地方では珍しい。音楽室には上越地方では唯一のオルガンもあり、ハイカラな雰囲気あふれるお嬢様学校だった。

女子教育に偏見が強い当時でも人気

文部省の白書などによると、明治20年頃の小学校就学率は、一応は義務教育であるにもかかわらず約45%、女子に到っては30%前後に低下する。

えちごトキめき鉄道高田駅(筆者撮影)
えちごトキめき鉄道高田駅(筆者撮影)

女学校への進学率は学齢期女子で1%程度だったという説もあり、東京や大阪などの都市部でも街中で女学生を見かけることはめったにない。女学生そのものがかなり希少な存在だった。

明治時代前期や中期の頃は、富裕層にも娘の女学校進学をためらう親は多かった。