白く透き通るような「高寺芯(たかでらしん)そば」。福島県会津坂下町高寺地区で古くから食べられてきたそばは、戦時中は飢えをしのぐための“黒い”食べ物だった。

■地域を代表する食文化
今は会津坂下町の飲食店で提供されている「高寺芯そば」。
味わった人は「太い麺より細い麺がおいしい」「歯ごたえが良くて、とてもおいしい」と話す。

そばの栽培からそば打ちまで手掛けるのは加藤康明さん。
そばの実の中心部分“芯”だけを用いた真っ白なそば粉でつくる「十割そば」は、文化庁の「100年フード」にも選ばれている。
改良を重ねながら、世代を超えて受け継がれていることなどが評価された。

■戦中の食を支えた黒いそば
町を代表する食文化だが、いまの形になるまでには“暗い時代”があった。
加藤康明さんは「この地区では昔から、そば打ちをして食べるという、日常の食生活の一部ではあったと思う。ぜいたく品ではなく」と語る。
また「戦中は、殻とほこりにまみれたジャリジャリの田舎そばを、食べづらくても飢えを凌ぐために食べたという食文化だったのでは」と話した。

日中戦争が始まった翌年の1938年に公布された国家総動員法。
人的・物的資源の統制が一段と強まり、国民は深刻な食料不足に襲われた。
例え、コメ農家であっても収穫したコメは国への供出を強いられ、満足に食べることはできず。野菜や卵などの生産物も、戦地へ送られていった。

■飢えをしのぐため
会津坂下町がまとめた町の歴史によると、日中戦争以降の戦死者は軍人・軍属だけで800人以上に及び、高寺地区でも60人以上が命を落とした。
耐え忍びながら、飢えをしのぐために食べられていたのが“黒いそば”だ。

加藤康明さんの父・健さんは戦後生まれだが“黒いそば”の記憶があるという。
「親父たちは3食に1回とか、4食に1回くらいは、焼きそばというそばを団子にして焼いたものを食べさせられたという話は聞いた。今のそばみたいに、のど越しがいいのではなく、黒くてぼそぼそして埃も何もかも入ったものを食べさせられていたから、そばのイメージが悪かったんだな」(加藤健さん)

■食でつなぐ戦争の記憶
“黒いそば”を食べていた健さんの父・義明さんが、戦後に考案したのが、そばの芯だけを贅沢に使う白いそば粉だった。
そして、健さんが打ち方の研究を重ねるなどして、「高寺芯そば」は広まっていった。

「今の状態をどこまで持続できるか。これは努力して続けていかないといけない。とにかくうまいものをつくることだ、真似のできないものを。それに日々精進していくこと、ほかにない」と語る健さん。
そのバトンを託された息子・康明さんは「祖父・父親・私と繋いできたところは感謝する。これから後輩たちに、しっかりと繋げていく」と語った。

食を通じて、戦争の記憶がつながっていく。

福島テレビ
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