スタートラインに立つのは、84歳の元会社員から、海外からの初出場者、そして過去のオリンピック出場選手まで。長野県白馬村の八方尾根スキー場で毎年開催されるリーゼンスラローム大会は、スキーができれば誰でも参加できる「日本一の草レース」として知られる。2026年、大会は第80回という節目を迎えた。500人を超える選手が、全長3000メートル、最大斜度30度の長大なコース(今年は雪不足のためゴール地点が上部に変更され、コース全長は1900メートルとなった)に挑んだこの大会には、終戦直後の1947年から脈々と受け継がれてきた「誇りの軌跡」がある。一人の先駆者が戦時中の疎開先で抱いた夢が、どのようにして80年の歴史を刻んできたのか。その物語をたどる。
■「素晴らしいスキーコースになる」
八方尾根にリーゼンスラロームコースの夢を描いた先駆者の名は、福岡孝行(たかゆき)。1913年生まれの孝行は、戦後長く法政大学教授としてドイツ語と体育理論の教鞭をとる学者であり、アスリートでもあった。
孝行は、1944年太平洋戦争の戦局が深まる中で、家族を伴い現在の長野県白馬村北城八方地区(当時の北城村細野)に疎開した。当時は、茅葺きの民家が並ぶ静かな山里だった。だが孝行の目には、林に覆われた八方尾根の斜面が、可能性に満ちたスキーコースとして映っていた。実はその着想は、疎開よりも以前にさかのぼる。
1937年、東京帝国大学の学生だった孝行は、日本初のスキー映画 ”スキーの寵児” を監督した。現在の長野県小谷村栂池高原を拠点として撮影された35ミリ映画は、白馬乗鞍山麓一帯と立山を背景に全国トップのスキーヤーたちの技術を収めたもので、孝行自身の滑りも収録されていた。その撮影を通して、孝行はすでに八方尾根の地形を知り、その潜在力を見抜いていた。
孝行の長男で、現在も国際スノースポーツ指導者連盟の学術委員長を務めるスキー指導者・孝純(たかずみ)さんは語る。
「親父はスキーの映画のときに八方尾根を見ています。当時は木がたくさん生えていてスキーは滑れなかったけど、コースとしては底力のある幅の広いコースだということを父親は見抜いて知っていたわけです」
■反対乗り越え…神聖な山を拓く
疎開した孝行の家には、地域の若者たちが集まるようになった。孝行はスキーの魅力と、コース開発の構想を熱心に語り続けたという。しかし、その実現への道は決して平坦ではなかった。
「白馬・山とスキーの総合資料館」館長で、生前の孝行からスキーの手ほどきを受けた三枝兼径さんは、当時の状況をこう振り返る。
「当時としてみれば長老たちは大反対で、山は神聖なものであると。神のものであって、大きな木とか、そういうものも生活に大変関係深いものであった」
信仰と生活の基盤として深く根付いていた山を、よそ者が拓くという構想は、地域社会に強い抵抗を生んだのだ。それでも孝行と若者たちは諦めなかった。一軒一軒訪ねて説得を重ね、ついに計画が動き出した。
三枝さんはその精神をこう称える。
「ナタを持って切り拓いていったという、そういうくらい地元の人たちの情熱はフロンティア精神があって。だから今も私たちはリーゼンスピリットってよく言いますけど、そういう意気込みが大切だと思います」
■手弁当で切り拓いたコース
1946年、戦後の開放感の中で、地域の若者たちは手弁当でリーゼンスラロームコースを切り拓いていった。その喜びを、孝行は後に「翔心」(しょうしん)という詩に綴っている。
「しろうまの美わしき地に/むらびとの心ひとつに/若人男女力あわせて/天かけるしろうまのごと/スキー駆るコースを拓く/南は大町 北は小谷/アルプスのふもと/相よらいて/リーゼンスラローム開く」
こうして尾根の麓、標高800メートルの名木山から、標高1400メートルのうさぎ平を経て、標高1680メートルの黒菱平まで、全長4500メートルに及ぶ長大なリーゼンスラロームコースが完成した。
そして、1947年3月、第1回リーゼンスラローム大会が開催された。ドイツ語で大回転を意味するリーゼンスラローム。自然の地形を大事にしながら大雑把に滑るということで、孝純さんの言葉を借りれば「自然に合った形でする競技」として、孝行がその名称をあえてドイツ語のまま使うことを選んだ競技だった。
■92歳が語る「第1回大会」
白馬八方地区にあるホテル「対岳館」の2代目、丸山庄司さんは今年92歳。中学生として第1回大会に出場した数少ない存在だ。スキーを教えてくれたのは、当時積極的に地域の子どもたちを指導していた孝行だった。
「みんな選手全員が集団になって登るんです。スキーは必ず付けて、つぼ足なしで階段登りで。自分たちの滑るところをある程度予想しながらポールに沿って登って。満足でしたね、滑った!という感じを自分でもそのとき思いました」
まだリフトなどない時代、スタート地点までは歩きで上がるのが当然だった。
第1回大会には青年119人、16歳までの少年48人の合計167人が出場した。孝行は前走を務め、競技係長として計測の責任も担った。当時のストップウォッチを使い、前走の孝行がスタートしてから10分後に競技を開始し、その後は1分おきに選手がスタートするというルールを定め、ゴール地点で選手のスタートを予測して計測したという。
庄司さんはやがてアルペンスキーヤーとして頭角を現し、1964年には SAJ(全日本スキー連盟)の初代デモンストレーターに認定された。「きっかけを作ってくれたのはリーゼンスラローム大会ですね」という言葉は、大会が一人の人生をどれほど変え得るかを端的に示している。
■3人のオリンピアンを生んだコース
大会の歴史の中でも特筆すべきは、リーゼンスラロームコースがオリンピック選手を育てたという事実だ。
象徴的な存在が、ホテル「ヴァイサーホフ八平」を経営する丸山美保子さん。鳥取県出身の美保子さんは旧姓を大杖といい、日本人女性初のアルペンスキー選手として1968年のグルノーブルオリンピックに出場した。叔母の山崎清子さんはリーゼンスラローム大会で第2回から5連覇を続けた選手であり、美保子さん自身も第14回・第15回で2連覇を達成している。
「大山の田舎のスキー場とは比べ物にならないほどロングコースで、急斜面もあり、いろいろと変化のあるコースですので、アルペンスキーは特に、いろんなところを滑らなきゃいけないから、それに適した滑り方を自然と身につけたんじゃないかなと思いますね。この大会とコースでオリンピックに行けたんじゃないですか」と美保子さんは語る。
1967年に八方尾根で開催された全日本スキー選手権大会では、美保子さんが滑降競技で優勝し、滑降・大回転・回転の3冠王に輝いたのが後に美保子さんの夫となる地元白馬の丸山仁也さんだった。仁也さんの従兄弟・丸山寿一さんも回転で3位に入賞。こうしてリーゼンスラロームコースで育った3人が揃って翌年のグルノーブルオリンピックに出場することになった。
大会の生みの親・福岡孝行はこのことを大変喜んでいたと伝えられており、庄司さんはその言葉を今もこう記憶している。
「リーゼンスラローム大会は、こんな素晴らしい標高差があって素晴らしいコースがある。これをみんな多くのスキーヤーに知らせたかった。その中でオリンピック選手が出るというところまで想像していなかったけど、良かったよって、そうしみじみ言ったのを覚えています」
この記事は、NBSフォーカス信州「白馬を滑る 誇りの軌跡 〜リーゼンスラローム80年の物語〜」(制作:長野放送/放送:2026年3月27日)をもとに作成しました。