「1999年6月 江ノ島・人々」―水性ペンで書かれた文字は消えかかっている。今は見かけなくなった、手のひらサイズの家庭用ビデオカメラのテープに、ラベルシールが貼られている。その中には、25年ぶりに“再会”した娘の動く姿が映されていた――。

モデル事務所に所属も…消えた美大生

映像に映る女性は、多摩美術大学1年生の井出真代(いで・まよ)さん、当時18歳。

身長171㎝のスラッとした体型で、一時モデル事務所に所属したこともあるという。将来の夢は『アーティスト』と話していた。

25年前に行方が分からなくなった井出真代さん(当時18歳)
25年前に行方が分からなくなった井出真代さん(当時18歳)
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真代さんは、冒頭で紹介した映像が撮影された2カ月後の1999年8月、突然姿を消した。

その日は、毎年の家族の恒例行事となっていた、母の実家のある愛知県へ行く日だった。真代さんはその前日に突然「歯医者の予約があるから、愛知には行かない」と言い、翌日から連絡が取れなくなったという。

25年前に行方が分からなくなった井出真代さん
25年前に行方が分からなくなった井出真代さん

当時は家出人として扱われたものの、行方不明になってから11年後の2010年になって、警視庁がコールドケース(長期未解決事件)として捜査を開始。しかしその後も手がかりがないまま、25年が経った。

母が記した6冊の「捜索ノート」

私は2024年夏に初めて、井出真代さんの母・万里子さんを、取材のために訪ねた。

都内の未解決事件を調べ直しているうちに、18歳の、美大に入学したばかりの女子大学生の消息が、25年もの長い間、全く手がかりがないという記事を読み、関心を持ったのがきっかけだった。

真代さんの母・万里子さん
真代さんの母・万里子さん

家族が作成した情報提供を呼びかけるチラシに書いてあった連絡先に電話をし、面会を申し込むと、万里子さんはすぐに、家に迎え入れてくれた。

美大に進んだ真代さん同様、絵画展を催すほどの腕前の母・万里子さんが描いた絵に囲まれたリビング。そこで、万里子さんは、真代さんを探す過程で記録した、6冊にも及ぶ「捜索ノート」をめくりながら、真代さんがいなくなった経緯について順を追って丁寧に説明してくれた。

真代さんが高校時代に描いた絵画
真代さんが高校時代に描いた絵画

行方不明になる前の真代さんの行動や交友関係、興味があること、将来アーティストになりたいと言っていたこと、過酷な美大受験を終えて、絵画だけではなくダンスや演劇など、いろんなものに興味を持ち始めていたこと。中でも、部屋からなくなっているものについての話が、特に印象的だった。

消えた水着とPHS充電器

万里子さんによると、失踪の前日に真代さんは近所のプールに行っていたという。失踪後に真代さんの部屋を調べてみると、その時使った水着が無くなっていたそうだ。

25年前に行方が分からなくなった井出真代さん(当時18歳)
25年前に行方が分からなくなった井出真代さん(当時18歳)

真代さんの母・井出万里子さん
「普通だったら、一度着た水着はすぐ洗濯すると思うけれど、あまり几帳面とはいえない娘の性格だったら『うっかりカバンに入れっぱなし』で次の日も出かけた、ということもあるかもしれない」

真代さんの母・井出万里子さん
真代さんの母・井出万里子さん

他にも無くなっているものがあったという。

真代さんの母・井出万里子さん
「PHS を充電する台がなくなっていた。よく着ていたT シャツもなくなっていた。親の不在の間にどこかに行こうと思ったのかしらとも考えたけど、旅行用の歯ブラシは家にあったのよ」
「数日前に銀座に出かけた時に一緒に買った、画集もなくなっていた。あの子はカフェで画集を見たりするのが好きだから持って行ったのかしら」

水着やPHSの充電台などがなくなっていた
水着やPHSの充電台などがなくなっていた

真代さんの性格は、伝わってきた。でも、なぜ真代さんはいなくなったのか、聞けば聞くほどわからなくなった。

失踪直前の映像を新たに発見

最初の取材から数週間経ったころ、母・万里子さんからメッセージが入った。

「失踪した年の6月に多摩美の友達4人で湘南に行った時のビデオがあると、友人から連絡をもらいました。真代が映っており声もあるとのこと」

テープには失踪直前の真代さんの様子が記録されていた
テープには失踪直前の真代さんの様子が記録されていた

新たな映像が見つかったきっかけは、今回の取材だった。真代さんの友人の話も聞きたいので紹介してもらえないかと万里子さんに依頼したところ、娘の美大時代の同級生・板垣潮美さんに連絡を取ってくれた。

真代さんの友人・板垣潮美さんが25年前のカメラとテープを発見した
真代さんの友人・板垣潮美さんが25年前のカメラとテープを発見した

板垣さんが、当時の写真をめくりながら真代さんと過ごした日々を思い出していたとき、板垣さん自身ががビデオカメラを持って映っている写真を発見したそうだ。撮影したビデオテープがどこかにあるはずと考えた板垣さんは、実家の収納を探したところ、年代物のビデオカメラとテープを見つけ出した。

板垣さんは「映像演出研究会」というサークルで真代さんと活動をともにしていて、1999年6月の日曜日、1年生の女子数人で「日帰り・撮影旅行」のため江ノ島に繰り出していたのだ。

探し続けた娘の“猫背の後ろ姿”

2024年9月。板垣さんは探し出したテープを持参し、万里子さんに見せるため、井出家を訪れた。20年以上起動していなかったビデオカメラだったが、テレビ画面に接続し、再生することができた。

発見されたテープに映っていた井出真代さん(当時18歳)1999年6月撮影
発見されたテープに映っていた井出真代さん(当時18歳)1999年6月撮影

映像冒頭、駅の改札口で、ひときわ背の高い真代さんが「ごめーん」とばつが悪そうに登場する。どうやら待ち合わせに遅刻したらしい。

母・万里子さんは目を細め、「そうそう、うちの娘、よく遅刻したのよ」と笑う。

母の記憶に残る18歳の頃の娘・真代さんはおおらかな性格だった。

ビデオは、江ノ島の海や商店、飲食店などを、女子大生たちが目的もなくぶらぶら歩き、時折、地元の人と会話をするという、他愛もない場面が20分ほど続いた。

万里子さんはこの場面を見て、「真代は猫背なのよ」と目を細めた(画面左が真代さん)
万里子さんはこの場面を見て、「真代は猫背なのよ」と目を細めた(画面左が真代さん)

お気に入りだったという薄緑色のタンクトップ姿の真代さんの後ろ姿が映った時、母・万里子さんが声を上げた。

「そう、これが真代ちゃんという感じ。背が高いからなのか、いつも猫背なのよ」

初めて目にする25年前の娘の映像を見つめる万里子さん
初めて目にする25年前の娘の映像を見つめる万里子さん

“猫背のイメージ”に、板垣さんも「これこそ真代」と相槌を打つ。

映像サークルの学生とはいえ、入学間もない1年生。時折“手ブレ”し、何を話しているのか、何を見せたい映像なのかも判然とはしないが、みずみずしい青春の1ページが切り取られていた。

画面の中の真代さんは、はじけるような笑顔を見せていた 1999年6月撮影
画面の中の真代さんは、はじけるような笑顔を見せていた 1999年6月撮影

母・万里子さんにとっては、会いたくてたまらなかった、娘の「猫背の後ろ姿」と25年ぶりに再会できた映像だった。

映像のなかで真代さんが身につけていた“お気に入り”の薄緑色のタンクトップは、行方不明になった後、部屋には残されていなかった。その服を着て行方不明になった可能性が高いという。

帰り際に「明日学校だ・・・元気出さなきゃ」

ビデオ終盤、再び駅で、帰宅の途につく場面。一人ずつ感想を述べるシーンだ。

朝の遅刻を友人に再びイジられた真代さんは「今朝はすみません、パンおごったんだからいいでしょ!」とおちゃめに笑う。カメラを回す板垣さんに向かって、真代さんは名残惜しそうに、「楽しかった、また来たいね。今度は泊まりで」と話した後、「明日学校だ…元気出さなきゃね…」と、少しため息交じりに話していた。

発見されたテープに映っていた井出真代さん(当時18歳)1999年6月撮影
発見されたテープに映っていた井出真代さん(当時18歳)1999年6月撮影

この時、なぜ真代さんが「元気出さなきゃ」という言葉を発したのか、板垣さんは詳細を覚えていない。それが深刻な悩みだったという記憶はなく、軽い感じの会話だったのではないかと振り返る。

私も、18歳特有の悩みかもしれないと思う一方で、事件の解明につながるヒントが隠されている可能性もあると気になった。

歯科医院に来院せず

母・万里子さんは25年間、真代さんをずっと探し続けてきた。冒頭で紹介した「捜索ノート」には、家族が探し続けた記録、会った人、連絡先、すべてが書き留められていた。

交番に掲示された真代さんの情報を求めるチラシ
交番に掲示された真代さんの情報を求めるチラシ

真代さんが失踪前、「予約がある」と言っていた歯科医院にも自ら何度も足を運んだが、その日には来院していないという回答だった。

最後の目撃情報である、自宅近くのレンタルビデオ店にも通った。失踪直前の真代さんが返却したのは寺山修司監督の「田園に死す」という作品だったことも自分で突き止めた。その前に借りたビデオの名前も店員に聞き、リストアップし書き留めた。

捜索ノートを開く母・万里子さん
捜索ノートを開く母・万里子さん

テレビ番組の取材を受け、「似ている女性がいる」という情報が寄せられれば山梨県など各地に何度も足を運んだりもした。

幼少の頃の真代さん
幼少の頃の真代さん

まさに、どんな些細な情報でも、母親自ら足を運んで確認をし、ノートに記録した。名刺やメモを貼り付けたセロハンテープは、黄色く変色している。

警視庁が“コールドケース”として捜査開始

当初、警察に相談をしても「若い人の家出はよくある」という反応だったが、11年経ってから警視庁捜査1課が“コールドケース(未解決事件)“として捜査を開始した。

警察の要請で再現した失踪前の食料リストが「捜索ノート」に記されていた
警察の要請で再現した失踪前の食料リストが「捜索ノート」に記されていた

担当した刑事が、「真代さんが失踪したのは、家族が帰省した13日ではなくて、その翌日かもしれない。家族が出発する前に冷蔵庫にあった食べ物と、帰宅後に残っていた食べ物の量が知りたい」と提案。万里子さんは実際に、出発前に作り置きしたポテトサラダやごま豆腐などを料理し、刑事の前で”再現“した。そのときの料理リストも「捜索ノート」に記録されている。

こうした捜査も数年行われたが、大きな手がかりは得られなかった。

25年ぶりの「おかえり」を

25年という年月。母・万里子さんは「たとえ自分でどこかに行ってしまっていたとしても、一度も連絡がなく、こんなに長引くのはおかしいじゃないか」と話す。「誰かに拘束されているのか、軟禁なのか。(真代に)帰れない理由があるのかなと。それがひどいものでなければいいのに、と思っている」と話す。

娘には「よく生きていたね、ありがとう」と伝えたいという
娘には「よく生きていたね、ありがとう」と伝えたいという

どんな事情があってもいい。娘に伝えたいのは、「25年も探せなくてごめんね。よく生きていたね、ありがとう」の言葉だ。

2025年2月3日、真代さんは44歳の誕生日を迎えた。この前日に、再び万里子さんを訪ねると、自宅のピアノにひな人形を飾っていた。

「もうすぐ誕生日だからね、この季節になると今も毎年、ひな人形を飾るの。今年は、なんとなく帰ってきそうな気がするから」

猫背の娘に、25年ぶりの「おかえり」を言うため、母の戦いはまだ続く。

FODオリジナルコンテンツ「未解決事件ファイル 迷宮の鍵」で真代さん失踪事件解決の鍵を探る
FODオリジナルコンテンツ「未解決事件ファイル 迷宮の鍵」で真代さん失踪事件解決の鍵を探る

FODオリジナルコンテンツ「未解決事件ファイル 迷宮の鍵」では、重要未解決事件の謎を社会部記者が取材し、解決のための「鍵」が何なのかを考察する。
File1「町田市美大生失踪事件」では、普段着姿のまま忽然といなくなった井出真代さんを探し続ける母親に話を聞き、失踪11年後にコールドケースとして捜査が行われた経緯、独自に手がかりを探す中で浮かび上がった本人の内なる思いなどを検証。捜査のスペシャリストとともに、事件解決の鍵を探っていく。
配信ページ:https://fod.fujitv.co.jp/title/80hf

<行方不明者の情報>
井出真代(いで まよ)
1981年2月3日生(失踪当時18歳)
身長:171cm やせ型 
ショートヘア、明るい茶色
多摩美術大学1年生 
モデル事務所経験あり
当時の服装:うす緑色ノースリーブ Gパン ピンクのサンダル
所持品:紀伊國屋のバッグ、PHS電話、水着
情報提供先:警視庁町田警察署 042-722-0110 
      家族携帯(情報提供用) 080-8543-3772

【取材・執筆:フジテレビ社会部警視庁キャップ 中川眞理子】

中川 眞理子
中川 眞理子

“ニュースの主人公”については、温度感を持ってお伝えできればと思います。
社会部警視庁クラブキャップ。
2023年春まで、FNNニューヨーク支局特派員として、米・大統領選、コロナ禍で分断する米国社会、人種問題などを取材。ウクライナ戦争なども現地リポート。
「プライムニュース・イブニング元フィールドキャスター」として全国の災害現場、米朝首脳会談など取材。警視庁、警察庁担当、拉致問題担当、厚労省担当を歴任。