第二次世界大戦末期、児童800人を乗せて撃沈された疎開船「対馬丸」。子供たちを乗せたまま、なぜわずか10分で沈没に至ったのか。
FNNは、イギリスの造船業者が設計した対馬丸の図面を独自に入手。長年の遺族らの希望を受け、およそ30年ぶりに行われた水中調査のオペレーションを取材し、戦後ひた隠しにされてきた悲劇の真相に迫った。
海に沈んだ「対馬丸」
2025年11月、鹿児島県トカラ列島の沖で、内閣府による、ある水中調査が行われた。

海中調査のオペレーター:
それでは、ROVを水面につけていきます。水の中に入っていきます
およそ1時間かけ、水深870メートルの海底へ。見通しの利かない海中を進むと・・・。
「あ、何か見えてきましたね」

画面に現れたのは、貝などの付着物に覆われた鉄製の構造物、「対馬丸」だ。

第二次世界大戦末期、アメリカ軍の潜水艦に撃沈され、児童およそ800人を含む、1500人近くが犠牲になった悲劇の船。FNNは、その水中調査のオペレーションを、遺族も立ち会う中、撮影することを許された。
生存者の証言
対馬丸が出航したのは、戦争末期。国は、児童や女性ら10万人を本土に疎開させることを計画し、対馬丸などの民間輸送船が用いられた。
沈没した船から逃げ出して、九死に一生を得た女性が、当時の状況を証言している。

上原妙さん(当時14歳):
縄ばしごみたいに急勾配のハシゴでね。途中から怖いんです、ガタガタ震えて。
船が出航した翌日の夜、突然、轟音が鳴り響いたといいます。

上原妙さん(当時14歳):
ぐっすり寝た後に、急に「左舷に飛び込め左舷に飛び込め」って人の足跡が、枕元にどんどん聞こえるんですね。
魚雷を受けた対馬丸。生存者が描いた絵には、海に飛び込んだ児童たちが海上を漂う様子が描かれていた。

一方、対馬丸に向かう魚雷を目撃したという証言もある。
上原妙さん(当時14歳):
いかだに座った途端に、ガラガラと何かが下を通るんですね。そしたら何秒もしないうちに当たってしぶき上げて、バーンと爆発して沈んだ。
こうした証言や、魚雷や船の速度の計算から、魚雷は左舷に3発があたり、船が右後ろに反転したのち、右舷にさらに1発直撃したと、長年、考えられてきた。

しかし、沈没の真相は、箝口令が敷かれたため、詳細については今も分かっておらず、遺族からは船の調査を行うよう求める声が上がっていた。

4歳で家族と対馬丸に乗船した高良政勝さん(85)は、「物的な証拠を映像として確認できるのは非常にありがたい」と話す。
