京極丸を落とされ「もはやこれまで」と、久政は小丸で切腹。小丸は文字通り面積の小さな曲輪のため、もし切腹せず決戦を選んでいたら、その奥の山王丸に籠ったのではないかと思われます。
石垣の高さは約5mと本丸を上回ります。山王丸は小谷城の最奥部にして標高も最も高い位置。裏側は断崖で守られています。
長政はなぜ家臣の屋敷で自刃した?
さて、父の久政は小丸で切腹しましたが、息子の長政はどこで最期を迎えたのでしょうか。それは、拠点とした本丸や大広間とは別の場所でした。
長政の最期の地は、黒金門から山道を北東に逸れた先にあります。
崖に沿って進んでゆくと、わずかにひらけた曲輪にたどりつきます。ここが浅井長政自刃の地、赤尾屋敷です。
「赤尾」とは、浅井家の重臣・赤尾清綱のこと。なぜ大将が家臣の屋敷で?現地案内板によると、黒金門から討って出た長政は退路を断たれ、本丸方面に戻れなくなってしまい、やむなくここで最期を迎えることになったとか。
その時、妻のお市の方、幼い三人娘はおそらく大広間にいたのではないでしょうか。赤尾屋敷はちょうど本丸や大広間の直下で、その間は急崖に隔てられています。いまわの際に交わした言葉はあったのか。敢えて愛妻、愛娘に何も知らせぬまま切腹したのか。いずれにせよ長政は命を断ち、妻と娘たちは生き延びることになったのです。
小谷城の戦いで一番槍を入れ、勝敗を決する決定的なダメージを与えた秀吉は、この大手柄により北近江の旧浅井領が与えられ、ついに城持ち大名に。ここから豊臣兄弟の出世街道が本格化するのですが、夫を喪ったお市の方はなんと秀吉のライバル・柴田勝家と再婚。「よりにもよってなぜアイツに!」「オレが救い出したのに!」と、歯軋りする姿が目に浮かびます。
もっとも秀吉はその十数年後、お市の方の娘の一人、茶々を側室とするのですが…。
今泉慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家。編集プロダクション・風来堂代表。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社)など。
