御馬屋、桜馬場あたりには広大な曲輪になっており、縁には土塁(土手状の土盛り)もあります。内部は大勢が駐屯しやすいようにし、外部からの侵入は難しくするのは、城造りの基本です。
桜馬場の奥側にある石段と石垣は、黒金門の跡。崩れつつある姿がまた、戦国の栄枯盛衰を感じさせます。かつてはここにも石垣が築かれていたのでしょう。
石段の両側に巨石が並ぶ黒金門ガッチリ固められた防御ラインを突破すると、いよいよ小谷城の中枢部です。
この城内で最も広い曲輪「大広間」は、縦約85m、横約35m。
ここには、発掘により井戸や蔵があったことがわかっています。合戦時に籠ったといわれる約5000人のうち大半が駐屯していたのでしょう。
大広間は縦約85m、横約35mもある大広間を奥へと進むと、野面積み(比較的小ぶりの自然石を積む手法)の本丸石垣が、壁のように目の前に立ちはだかっています。
本丸まででようやく、小谷城全体の中間地点。まだまだ遺構は続いています。
本丸からは、「大堀切」が見えます。堀切とは、尾根などを人工的に掘り凹状にした構造のこと。土の城の防御構造としてよくみられます。しかし、深さ5~6m、幅も20数mに及ぶ規模のものは、なかなか出会えません。
なんとか城内に侵入したとしても、堀底でまごまごしているうちに頭上から雨あられの猛攻を受けてしまえば、たちまち壊滅してしまいます。しかも小谷城の大堀切は、本丸の反対側にも曲輪が連なっています。
小ぶりの曲輪が三段並ぶ中丸を抜けると、大広間に次ぐ広さの曲輪にたどりつきます。ここが秀吉が落とした京極丸です。
縦に長い尾根伝いに確固の曲輪を撃破して、本丸や京極丸など中枢部までたどりつくには、ここまで見てきた通りなかなかの道程です。
秀吉がどこまで城内の構造を把握していたかは不明ですが、少なくとも尾根の形状は城下からでも一目瞭然です。
であれば、いちかばちか横にぶった斬るほうが、うまくいけば敵に一気に大打撃を与えられる。「うまくいけば」ですが…。
結果、秀吉はこの賭けに勝ちます。
