毎晩ワイシャツとステテコで寝た不器用な小渕さんはなぜ死んでしまったのか

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  • ワイシャツとステテコで寝る首相
  • みんなが小渕さんをバカにしていた
  • でも丸呑みしながらやることはやった

上はワイシャツ、下はステテコ

平成11年(1999年)3月、北朝鮮の不審船が能登半島沖に現れた時、日本の首相は小渕恵三さんだった。

当時の僕は夕方や夜のニュースのプロデューサーを務めた後、政治部に戻って首相官邸キャップになっていた。39歳だった。この時、日本政府は初の海上警備行動を発令。不審船は逃走し1週間続いた騒ぎはようやく収束した。

後から聞いたのだが、その間小渕さんは毎晩、下はステテコ、上はワイシャツを着たまま寝ていた。夜中に急に事態が動いた場合、すぐに公邸から官邸に行って、記者会見しなければいけない、という強い気持ちがあったらしい。

ワイシャツを着たまま寝るとリラックスできないし、何かあってもすぐに着ればいいんだから、脱げばいいのにと思うのだが、小渕さんはそういうところが真面目と言うより不器用な人だった。

「梶山は軍人、小泉は変人、小渕は凡人」

1998年総裁選

その前年の1998年7月、小渕さんが首相になった時、世間には失望が広がった。僕も、つまらない人がなったな、と思った。

総裁選では、梶山静六さんが不良債権処理、小泉純一郎さんが行政改革を主張するなど、2人が「変化」を訴えたのに対して、小渕さんは旧来型の財政出動を主張。田中真紀子さんから、「梶山は軍人、小泉は変人、小渕は凡人」と、1人だけバカにされた。

世間の気分もそんな感じだった。
あの頃の真紀子さんは冴えていた。

当時の自民党は参院で過半数を失って、不安定な政権運営を余儀なくされ、米紙ニューヨークタイムズも、小渕さんのことを「冷めたピザ」とバカにした。みんなにバカにされていたのだ。

しかしカブを両手に持って「株上がれー」という何だかやけっぱちなパフォーマンスをした頃から、不思議な人気が出て、流れが変わったように見えた。僕も少しずつ好きになっていった。

「株上がれー」とパフォーマンスをする小渕首相1998年12月

11月には「地域振興券導入」を丸呑みして公明党と事実上の連立を組み、翌99年1月には連立に自由党も加わった。野中官房長官が小沢一郎氏を指して、「悪魔にひれ伏してでも」という有名なセリフを吐いた時だ。

与党は参院で過半数を確保し、自民党と小渕さんは生き返った。周辺事態法、通信傍受法、国旗国歌法など、難しい法律を次々に成立させた。見違えるようだった。

小渕政権は、番頭役の官房長官が野中広務さん。
「政界のスナイパー」の異名を取った実力者だ。
その下の官房副長官は鈴木宗男さん。
後に東京地検に逮捕されるが、こちらも行動派。

自民党側も幹事長が森喜朗さん、政調会長が亀井静香さんと、強面の人たちばかりだった。

激務と真摯に向き合う姿

その中で小渕さんはいつも一人だけニコニコしていたが、忙しそうで、疲れていて、あまり元気そうに見えないのが少し心配だった。

ある日、小渕さんの秘書官に急ぎの用事があり、予算委が開かれている国会に行った。

控室に入ると委員会は昼の休憩中で、小渕さんは奥の部屋で来客中だった。予算委がある時、首相は朝9時から12時まで委員会に出て1時間休み、昼食を取った後、1時から6時までまた委員会に出る。早朝から答弁の打ち合わせがあり、夜は会合のはしご。結構なハードスケジュールだ。常人にはとてもこなせない。

ふと見ると小渕さんの昼食なのか、サンドイッチとざる蕎麦がテーブルに置いてある。2つとも食べるのか、大食だな、と思った。

「これ、まさかどっちも総理が食べるの?」と聞くと、秘書官が疲れた声で、「お昼に何食べたいか、話す時間もないんです。だから毎日2種類用意して、食べる時に選んでもらっているんです」、と言う。

時計を見るともう1時近かった。
委員会再開の時間だ。
「でも今日はもう食べる時間がないですね。」
と秘書官がつぶやいた時、奥のドアが開いて出てきた小渕さんは僕に小さくうなずいて、足早に委員会室に向かった。

聞くと地元の陳情の時間が押したのだった。そのために小渕さんは昼飯抜きになってしまった。これからまた5時間、野党からああでもない、こうでもない、と、サンドバッグのように叩かれる。しかも空腹のまま。

大変な仕事だな、でもこんな人生楽しいのかな、と正直思った。
「国会大変なんだから、今日の陳情はなし!」と言って布団かぶって12時から12時45分まで仮眠取って、起きて、お昼食べて、委員会に戻った方がはるかに健康的なのに。

小泉純一郎さんならそういうことを平気でやるだろう。
そうやってストレス解消しないと、とてももたない仕事なのだ。
でも小渕さんはそういうことはしない。

1999年5月 日米首脳会談後の共同会見

この年の4月、小渕さんは5泊7日で米国を訪問し、僕も同行取材した。1週間でロス、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントンを回り、時差ぼけと強行日程で、若かった僕もフラフラだった。

小渕さんも明らかに疲れていた。
顔色がどす黒く見えた。
しかし、帰りの飛行機では自分の部屋に呼んで、写真を一緒に撮ってくれた。

10秒間の沈黙

小渕さんが倒れたのはその1年後だった。

2000年4月1日、自由党の小沢さんが連立離脱を通告。その後のぶら下がりインタビューで、そのことを問われ、小渕さんは10秒間沈黙してしまった。あの10秒は長かった。その間、小渕さんは何か困ったような顔をしているように見えた。

ぶら下がりインタビューの際10秒間沈黙してしまった小渕首相(当時)

後に医者に聞くと、あれは一過性脳虚血発作と言われるもので、つまり一過性だった。と言うのは10秒の沈黙の後、小渕さんは普通にしゃべったのだ。

しかし翌2日、再び発作が起きて緊急入院した。
政治デスクになっていた僕はその日は休みだったのだが、急遽出社した。
小渕さんは翌日、昏睡状態になり、4月4日には内閣総辞職、翌5日には森政権が誕生した。小渕政権は突然終わってしまったのだ。

青山葬儀所で開かれた葬儀 祭壇の遺影

そして1か月半後の5月14日に亡くなった。
62歳の早い死だった。

やることはやった小渕さん

小渕さんはなぜ死んだのか。
もともと心臓に持病があり、体はそんなに丈夫ではなかったらしい。
そこに首相としての激務と、小沢さんとの連立維持のストレスが加わったのではないか、と当時は言われた。

あのどす黒い顔色を思い出し、命を縮める、という言葉が浮かんだ。米国の大統領は日本の首相に比べて強い権限を持つが、スケジュールを見ると、仕事は日本の首相よりはるかにラクだ。その証拠に、トランプもオバマも、その前のブッシュも、見た目はつらつとして明らかに元気そうだ。

現役の首相の突然の死に驚くばかりで、当時は小渕さんの首相としての実績など考えなかったし、言う人もあまりいなかった。

死後20年がたち、あの人いったいどんな人だったっけ、と思い出してみた。

首相就任直後はまだ金融危機が続いていた時で、しかも参院では過半数を持っていなかったから、金融再生法案は野党の民主党案を丸呑みした。さらに公明党を連立に入れるために「地域振興券」を丸呑みした。周辺事態法では、丸呑みこそしなかったものの、本来、安全保障ではハト派のはずの政権なのに、タカ派の小沢さんにグイグイ押し込まれてしまった。

これらを指して中曽根元首相から「真空総理」とバカにされた。

この人は「丸呑み」ばかりして、いろいろな人に「バカ」にされるのである。
こういう首相は他にいなかった。。そして在位1年8か月で突然死んでしまった。

おそらく小渕さんの評価は、歴代首相の中ではあまり上の方ではないだろう。
ただ、作った法律や外交成果を見ると、長期政権の中曽根さんや安倍さんにはかなわないかもしれないが、一見派手だった橋龍さんや小泉さんと比べ、決して引けを取ってない。

1998年10月 日韓首脳会談

周辺事態法で、自衛隊が日本の領土の外で活動することを可能にした。。
国旗国歌法で、卒業式で日の丸を掲げ、君が代を歌うことを当たり前にした。。
男女共同参画社会基本法で、男女平等のための「ポジティブアクション」に踏み出した。
通信傍受法で、指定暴力団の凶悪犯罪について盗聴を可能にした。
韓国の金大中大統領とは未来志向の日韓関係で合意した。
株も2万円に戻した。

つまりこの人はやることはやったのだ。口ばかりで、あるいは動きが派手なばかりで、実は大したことをやってない首相も多い中で、丸呑みとか、真空とか、凡人とかバカにされながら、やることはやったのだ。

倒れる直前のあの困ったような顔を思い出して懐かしい気持ちになった。僕はもしかしたら小渕さんのことをかなり好きになったのかもしれない。

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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