2026年、水俣病は公式確認から70年を迎える。しかし、その歴史はまだ終わっていない。筋力の衰えと闘いながら今も語り続ける胎児性患者、そして徳之島出身の語り部として記憶をつなぐ女性——「公害の原点」と呼ばれた水俣病の現在地を見つめた。

「自分の生まれ育ちと、水俣病が切り離せなくなった」

熊本県水俣市に住む奥羽香織さん(44歳)は、鹿児島県徳之島町の出身だ。高校教師である夫の転勤を機に水俣へ移住し、水俣病とは当初、直接の関わりはなかった。しかし約10年前、環境ガイドを務める友人を手伝ううちに、歴史を語り継ぐ活動を始めるようになった。

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奥羽さんが作った紙芝居には、こんな場面がある。

「『なんやろか、海からおかしか臭いがする』。家にいたみつこは海に降りてみました。どうしたものだろうか。あっちこっちカキが岩から落ちて死んでいる。魚もふらふら泳いで、おかしい」

1956年に公式確認された水俣病。地元の化学工場チッソが排出した有機水銀によって水俣湾の魚が汚染され、魚を食べた人たちが激しいけいれんや手足のしびれを発症した。海でつながる鹿児島県内でも、出水市や阿久根市などで患者が確認され、これまでに鹿児島・熊本の両県で約2300人が患者として認定されてきた。

汚染された海はコンクリートで埋め立てられ、今では豊かな風景が広がる水俣。奥羽さんはその光景に、自身が生まれ育った徳之島の原風景を重ねるという。

「自分の生まれ育ちと、水俣病や水俣で起きたことが切り離せなくなった。その人の言葉を代弁せずに伝える方法がないか思い、物語の形があると」

紙芝居という手法には、患者の言葉をそのまま生かすための工夫が込められている。

「手があがらなくなった」——69歳の胎児性患者が今も伝え続ける理由

水俣市内の支援団体の事務所を訪れた出水市出身の長井勇さん(69歳)は、生まれる前に母親の胎内でメチル水銀中毒となった胎児性水俣病の患者だ。歩行障害と言語障害を抱えながら、ほぼ毎日この事務所に通い、新聞紙を使ったエコバッグの材料準備を行っている。

しかし、この3年ほどで筋力の衰えは急速に進んだ。作業で使うノリの容器を持つことすら、もはやできなくなったという。

「(体が)動かない。だんだん動かなくなってきた」

「あまり手があがらなくなった」

言葉数は以前に比べて減り、声を出すこと自体も難しくなりつつある。それでも、長井さんは出前授業などを通じて水俣病の問題を伝える活動をやめていない。

「(それでも)やはり水俣病のことを伝えたい」

短い言葉の中に、70年という時間の重さが凝縮されている。

鹿児島県内で水俣病の患者が初めて認定されたのは1960年のことで、長井さんはその初期の認定患者の一人だ。現在、県内では493人が患者として認定され、医療費の全額補助などを受けているが、認定を待つ人は今なお986人にのぼる。

認定と救済をめぐる争いは、70年後も続いている

この70年は、被害者の認定や救済をめぐる闘いの歴史でもある。患者と認められないまま症状を訴え続ける被害者に対し、国は2度にわたって一時金などを支払う救済策を示した。しかし、その条件は限られており、全国各地で水俣病をめぐる裁判が今も継続している。

直近では4月23日、福岡高裁が患者認定を訴える住民7人の訴えを棄却したばかりだ。公式確認から70年が経過してもなお、問題は現在進行形である。

「語る人が減っている」——語り部として今、伝える意味

5月に伊佐市で行われる教職員向け研修会の準備を進める奥羽さん。打ち合わせの最中、語り部として水俣病を伝える意味についてこう語った。

「水俣は今、本当に過渡期で語る人が減っていて、亡くなったり、高齢で話せない人がこの1、2年で増えた。水俣病を知ってもらうことを入り口に、これから自分がどんな社会を作っていくか、どんな風に生きていくか、考える助けの一つになっていけたら」

証言者が少なくなる中で、紙芝居という形に言葉を刻み込む奥羽さんの活動は、記憶の継承という意味でも切実さを増している。

公式確認から70年。戦後の経済成長と引き換えに人々の心身をむしばんだ水俣病は、今もなお複雑な問題を残し続けている。筋力が衰えながらも語ることをやめない長井さん、そして語り手が減っていく現実の中で記憶をつなごうとする奥羽さん——二人の姿は、二度と繰り返してはならない過ちの深さを、静かに、しかし力強く問い続けている。

【動画で見る▶水俣病を知らない徳之島出身の女性がなぜ語り部に?「自分の生まれ育ちと、水俣病が切り離せなくなった」 】

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