宮崎市の中心部を流れる大淀川の掘削工事中に、アメリカ製250kg不発弾が発見された。1月5日の発見から12日後、陸上自衛隊の不発弾処理隊が安全化作業を行い、作業中は周辺住民約1,700人に避難指示が出されるという大規模な対応が取られた。戦後80年以上が経過した現代に突如姿を現した不発弾は、戦時中の爆撃と当時の人々の暮らしを思い起こさせると共に、戦争の傷跡の深さを思い知らされた。不発弾発見から安全化作業を終えるまでの一部始終をこの記事に記録する。
大淀川で不発弾発見、現場は騒然
穏やかな新年を迎え、新しい年が始まったばかりの2026年1月5日、正月気分を吹き飛ばすようなニュースが駆け巡った。宮崎市橘橋付近の大淀川で行われていた川底の掘削工事中に、不発弾らしきものが見つかったのだ。
この工事は、防災対策として河川の流れを良くするために2025年10月から実施されており、作業員は重機を使って河川内の土砂などを掘り進めていた。テレビ宮崎の情報カメラは、この日の午前11時30分ごろの掘削工事の様子を捉えていた。

この約2時間後、事態は一変する。午後1時30分ごろ、作業員は川底から不発弾のようなものをすくい上げたのだ。
発見されたのは、宮崎市内で最も交通量が多い橘橋(たちばなばし)の中央から下流へ約150mの地点。すぐそばには宮崎市役所。文字通り、宮崎市の中心部だ。現場は物々しい雰囲気に包まれた。
発見から約8時間後、現場には、佐賀県の陸上自衛隊目達原(めたばる)駐屯地から不発弾処理隊が駆けつけた。

そして、見つかった不発弾のようなものは、全長約120cmのアメリカ製250kg爆弾であることが確認された。
アメリカが使った最も一般的な爆弾
この不発弾は、いつ、宮崎市に投下されたものなのか。
郷土戦史研究家の稲田哲也氏は、戦時中の日本とアメリカの記録から、宮崎県内の戦争の歴史を明らかにするための活動をしている。稲田氏は今回発見された不発弾について、太平洋戦争当時、アメリカが使用した「最も一般的な爆弾」と説明する。

宮崎で「不発弾」というと、2024年10月に宮崎空港の誘導路で爆発した事が記憶に新しい。航空機が通過した直後に突然爆発し、改めて不発弾の恐ろしさを思い知らされた事件であった。今回、大淀川から見つかったものも、宮崎空港の不発弾と同じ規模のものだった。
当時の映像を見て、爆弾の威力を思い知ったと考える人も多かったと思うが、稲田氏は「あの爆発は100%の爆発ではなかった」と話す。

郷土戦史研究科 稲田哲也氏:
恐らく中の火薬の半分か、それ以下しか爆発していない。まともに爆発したら、半径400~500mには何もなくなります。

宮崎市の主要な橋の近くで見つかった今回の不発弾。稲田氏は、「爆弾の発見場所で、当時のアメリカ軍の目的が分かる」と話す。

アメリカ軍にとって、宮崎県内の主要な爆撃目標は、鉄橋や駅、それに橘橋のような大きな橋だった。「交通の遮断」が狙いで、橘橋を破壊して物資や人員の輸送を妨害しようとしたのではないかと推察できる。

橘橋は戦後新しく架け替えられたが、1974年発行の『宮崎市史年表』には、実際に橘橋に爆撃があったことを示す記述がある。
「1945年7月27日 数回にわたり空襲警報。戦闘機来襲。橘橋を一部破壊した」

さらに終戦の翌年には、県の公文書に橘橋の修理に関する記録も残されていた。
「戦時中爆撃せられ、橋体の一部破損。応急的仮施設をなし、かろうじて交通の用に供し、これを復旧せんとす」と記されている。

稲田氏によると、当時の技術では、高速で移動する航空機から細い目標に爆弾を投下し命中させるのは非常に困難であった。多数の航空機で目標を囲むように爆弾を投下し、そのうちどれかが命中すれば良いという爆撃方法が取られていたため、目標を逸れた爆弾の一つが不発弾として残った可能性を指摘する。
爆弾が不発になる要因は、大きく分けて二つある。一つは製造時のミスなど機械的な要因、もう一つは爆弾を人の手で扱う際に起こる作業ミスである。
今回の爆弾の頭と尾部にはそれぞれ爆発を起こすための信管(しんかん)が取り付けられていた。稲田氏は、前後二つの信管がともに作動していないことは確率的に稀であり、人為的なミスが原因ではないかと推測する。
不発弾処理の一部始終
発見から2日後、不発弾の処理日時が決定した。
宮崎市では、1月17日午前11時から不発弾の撤去作業を開始することを決め、周辺に避難指示を出す方針を明らかにした。警戒区域は、現場からおおむね半径400メートルの範囲で、対象地域は橘通東1丁目、旭1丁目の一部、川原町、橘通西1丁目、松橋1丁目の一部となった。

避難指示の対象となる区域にはチラシが配布され、避難を呼びかけるとともに、当日の交通規制の内容などを住民に知らせた。

いっぽう現場には、不発弾の処理を行う「壕」が作られ、その周りを土のうで囲む作業が進められた。
そして迎えた処理作業当日。

午前9時30分、現場から400mあまり離れた宮崎市の施設に、自衛隊や警察、消防などの関係機関による災害対策本部が設置された。

消防局と消防団は、警戒区域内の避難広報を開始。指定区域の住民は午前11時までに指定区域外へ避難するよう求められた。
ある住民は「こればかりは仕方ない。解除されるまで市内をぐるぐる回っておこうと思う」と話した。別の住民は、ペットに「避難しようね」と呼びかけて、車に乗り込んでいった。警戒区域内の店舗は臨時休業をしたところもあった。
午前9時45分、周辺の道路では警察による交通規制が始まった。

午前10時 約1700人に避難指示が発令された。防災無線では、「避難指示が発令されました。警戒区域から離れてください」と呼びかけられた。3か所の避難所には、27世帯30人が避難した。避難した人は、「不安で、避難所に行った方が安心と思って来た」と話した。警戒区域は静まり返り、ほとんどの人が避難を終えた様子だった。

午前11時、災害対策本部から不発弾処理隊に対し、処理開始を依頼。処理隊は「了解しました。不発弾処理に着手します」と応じた。

現場で処理作業にあたるのは、自衛隊員5人。まずは不発弾をクレーンで釣り上げ、処理壕内に移動させた。続いて「信管離脱作業」に入る。不発弾にある2つの信管を工具で回転させ取り外す作業だ。
しかし、当初は信管が硬く、回らなかった。このためレンチに補助の持ち手を装着し、再度、信管離脱を試みるとの報告があった。

しばらくすると、「8分の1回転よし」と、信管を回し始めることに成功したことが報告された。災害対策本部には、信管の回転状況が逐一報告され、固唾をのんで見守っていた。

作業開始から45分後の午前11時45分、担当者から「合計8と3/4回転で弾頭信管の離脱に成功した」との報告があった。災害対策本部に拍手がおこる。離脱させた信管は保護容器に格納されるという。

続いて弾底信管。終盤には、レンチを外して手動で信管を回す作業が行われた。

そして弾底信管の離脱も無事に完了。作業開始から約2時間、災害対策本部には再び拍手が起こり、処理作業完了が報告された。

発見から12日、不発弾の処理は当初2時間30分から5時間かかると見込まれていたが、それよりも短い時間で無事に完了した。
取り外された2つの信管は、保護容器におかれ、報道陣に公開された。処理隊の担当者は、「信管の状態は非常にきれいで、初動は若干硬かったものの、その後はスムーズに安全化ができたため非常に安心している」と語った。

取り外された二つの信管を見た稲田氏は、「これは、とてもきれいな状態だと思った。ほとんど腐食していない」と驚きを口にした。
まだ眠っている爆弾はたくさんあるだろう
郷土戦史研究科の稲田氏は、「今回のような大掛かりなしゅんせつ作業があったおかげで不発弾が見つかった。掘り起こしていない部分で、まだ眠っている爆弾は、宮崎県内各地にたくさんあるだろう」と、警鐘を鳴らす。
戦争の記憶が薄れゆく現代においても、不発弾は、当時の傷跡が今もなお人々の暮らしの中にあることを訴えかけている。
(テレビ宮崎)