2025年は「戦後80年」を迎える年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに、戦争についての企画を放送する。2024年、宮崎空港では不発弾が爆発した。戦時中に投下されたと見られるアメリカ製の250kg爆弾だ。郷土戦史研究家は、旧海軍宮崎航空基地だった宮崎空港には未だに多くの爆弾が埋まっている可能性があり、戦争の記憶を忘れない事の重要性を訴えている。

戦後79年目 宮崎空港で不発弾が爆発

2024年10月、戦後79年目の宮崎空港で、戦時中に投下されたと見られるアメリカ製の250kg爆弾が突如、爆発した。太平洋戦争中に使われたアメリカ製の一般的な250kg爆弾は、長さ約150センチ、幅約30センチもある。80年前の宮崎空港はこうした爆弾が降り注ぐ戦場であった。

不発弾は、宮崎空港の滑走路につながる誘導路で爆発した。誘導路には直径約7メートル、深さ約1メートルの穴が開き、爆弾やコンクリートの破片などが半径約200メートルの範囲に飛び散った。幸い、近くに航空機はおらず、けが人はいなかった。
もし爆発が不完全ではなかったら…

宮崎市に住む郷土戦史研究家の稲田哲也さんは、映像から、今回の爆発は「不完全爆発」だった」と推察している。
郷土戦史研究家 稲田哲也さん:
現場に黄色い粉が散乱していた。あれを見た瞬間、炸薬(火薬)だなと思った。火薬が燃え切らずに散乱しているということは、不完全な爆発。本来であれば10メートル〜20メートルの大きな穴が開いて、深さも2〜5メートルの大きなクレーターができる。
今は観光客でにぎわう宮崎空港だが…

現在は、全国からの観光客が降り立つ宮崎空港。宮崎市街地から南へ約7km、車で15分の位置にあり、1996年、地方空港では全国初のJRによる空港連絡鉄道が開業するなど、交通の利便性が高くい空港だ。南国情緒あふれる「宮崎ブーゲンビリア空港」として、年間300万人を超える利用者を誇る。

その歴史は、82年前の1943年、大型機パイロット育成のための修練場「海軍航空隊宮崎基地」として始まった。

太平洋戦争が激化し、戦場が徐々に沖縄に近づくにつれ、宮崎基地も敵の戦艦などを攻撃する戦闘機が飛び立つ「前線基地」へと変化していった。
雲雀の群れ遊ぶが如く

そして1945年3月18日、宮崎基地はアメリカ軍から空襲を受ける。県内で初めての空襲だった。

郷土戦史研究家 稲田哲也さん:
米軍の沖縄上陸前の3月は、九州各地の日本の陸海軍の航空基地をせん滅するための空襲にアメリカ空軍は動いている。

宮崎基地の近くには砲台も設置されていた。空襲を目撃した海軍兵・川越質さんが残した戦闘の記録には、その恐ろしさが記されている。

空襲を目撃した川越質さんの手記:
グラマン約40〜50機、双眼鏡で見るまでもなく肉眼で、雲雀の群れ遊ぶが如くハツキリ見える。敵も激しく反復攻撃を繰り返す。我が方の損害も甚大、航空隊の格納庫も兵舎も焼土と化す。
この頃の宮崎基地は特攻隊の出撃基地でもあり、3月21日以降、44機が沖縄周辺のアメリカ艦隊に向けて出撃。131人が命を落とした。

稲田さんによると、宮崎基地は3月から5月にかけて9回の空襲を受け、約3100発の爆弾が落とされたという。
不発弾の磁気探査は続く…

国土交通省は、2024年の不発弾の爆発を受けて宮崎空港全域の磁気探査を行っている。しかし、予想より多くの場所で埋設物の反応があったため、年が明けても解析が終わっていない状況だ。

終戦から80年の歳月が流れたが、稲田さんは、今回の不発弾の爆発は、今を生きる私たちへの「警鐘」だったのではないかと感じているという。

郷土戦史研究家 稲田哲也さん:
宮崎空港、旧海軍宮崎航空基地という歴史を考えると、まだまだたくさんの爆弾が埋まっている可能性がある。特攻隊は連日出る、B29も連日飛んできて爆弾を落とす、宮崎空港はすさまじい戦場だった。
「忘れるんじゃないぞ」「戦争があったんだよ」「今後も起きる可能性があるんだよ」「しっかり生きろ」と言われているのかなと思う。
(テレビ宮崎)