昭和10年、道後はすでに全国有数の温泉地だった
愛媛を代表する温泉地であり観光地の「道後の今むかし」をひも解く。「鉄道省」時代の松山駅に、大勢の人が行き交う大街道。
今から約90年前、昭和10年ごろの松山の名所などを紹介した観光案内のフィルム映画。映画のなかで特に詳しく紹介されているのが、愛媛を代表する観光地道後温泉なのだ。
道後温泉は観光地として知名度は?
内木敦也キャスター:
「今回は昭和の観光フィルムを軸に、観光地・道後の移り変わりをひも解きます。井口先生よろしくお願いします」
愛媛大学社会共創学部の井口梓教授。観光地の文化や歴史をさまざまな角度から研究している。
内木キャスター:
「観光フィルムが撮影された昭和10年、道後温泉は観光地として知名度は?」
愛媛大学社会共創学部・井口梓教授:
「近世の江戸時代から道中日記と呼ばれる旅行案内で描かれていて、全国的に有名な温泉場。当時はより国内で観光旅行をしてもらおうと、鉄道省や行政機関が観光の宣伝用の映画を撮影していた。おそらくそういった背景のなかで映画が作られたのでは」

昭和32年当時、商店街エリアは少なくとも15以上の旅館が
商店街周辺の昭和32年の地図を見てみると…ここにも旅館!あそこにも旅館!当時、商店街エリアは少なくとも15以上の旅館が立ち並んでいた。
内木キャスター:
「商店街エリアに旅館、なぜ?」
井口梓教授:
「かつての温泉地での観光は、道後温泉本館のような外湯と呼ばれる共同浴場を利用し、旅館に宿泊。旅館にお風呂がなく(施設の)規模が小さかった」
内木キャスター:
「『入浴』と『宿泊』が完全に分離されていた」
映画では、文豪夏目漱石が松山に滞在した際に利用した「かど半旅館」も紹介されている。当時の旅館は木造3階建てが主流で、周辺の風景を見渡すと道後温泉本館が一番高い建物がだったようだ。

先を読んで時代の流れもとらえ
商店街の土産物店の2代目石丸明義さん。
内木キャスター:
「旅館があった頃は?」
石丸明義さん
「南予の小中学生が修学旅行で、道後温泉一泊二日が多かった。みんな外湯の道後温泉に行く、『芋の子を洗う』状態で浴槽で泳ぎまわる。『泳いだらいかん』言ってもきかない」
石丸さんの土産物店は、父の正彦さんが化粧品店として昭和20年代に創業。その後、観光客が増えたことを受け、徐々に土産物を中心に扱うようになった。当時の道後では石丸さんの店と同じように、時代の流行やニーズにあわせて業種を変えていった店舗も多かったそう。
石丸明義さん:
「周辺の旅館も含めてみんな考えた。どうしたら生き残っていけるか思い切って、ほかの商売に変えようと」
内木キャスター:
「みなさん先を読んで時代の流れも捉えつつ」
石丸明義さん:
「そうなんですよ」」

観光客や地域の人たちは「外湯」と呼ばれる公衆浴場を利用
戦前から戦後まもなくは、一般家庭だけでなく道後の旅館にも風呂はなく、観光客や地域の人たちは「外湯」と呼ばれる公衆浴場を利用していた。昭和10年の道後温泉の外湯を見てみると、「本館」のすぐそばに「鷺の湯」が、西側には現在の「椿の湯」がある場所に「西湯・砂湯」があった。
松木豊さん(90歳)・松木昭夫さん(80歳):
「道後の人は温泉に入るんよ」
「(家に)お風呂はいらんかったんよ」
「外湯にみんな来よった」
子供のころ道後の外湯に通っていた松木豊さんといとこの昭夫さん。地元の人たちは特に「西湯」をよく利用していたそう。

お遍路さんがよく利用
松木豊さん&昭夫さん:
(Q.西湯の入浴料は?)
「『2銭』。子どものころ切符買いよったけんね」「裏側に浅い『砂湯』があった」
(Q.砂湯とは?)
「下が砂」「(お湯が)ちょっぽりしかないんよ」
浴槽に砂を敷いた砂湯は足の疲れを癒すとして、お遍路さんがよく利用していたそう。
松木豊さん&昭夫さん:
「遍路さんは夜通しやけんな、そこで寝るんよな便利やったんよ」「懐かしいですよ」

「新温泉」や「しらさぎ湯」
そして昭和20年代に入ると道後公園の北側、現在の子規記念博物館周辺に「新温泉」や「しらさぎ湯」が、新たに整備された。
井口梓教授:
「昭和31年以降に各旅館に内湯が引かれ大浴場ができて、『内湯』と『外湯』を利用するようになり、観光のあり方が大きく変わった」
内木キャスター:
「内湯が引かれたことが、道後にとって転換点になっている」

誕生したのが「道後温泉センター」
続いて向かったのは本館の南側、冠山。
内木キャスター:
「フィルムだと階段を登り切った先に湯神社があったと思うが、今見ると場所が違いますね」
井口教授:
「実は湯神社は中央にあって今は東側に移設されている」
もう一度フィルムを確認すると…確かに!階段を登ったすぐ先に湯神社がある。
内木キャスター:
「移設して別のものがあった?」
井口教授:
「ここには昭和30年代に道後温泉センターが建っていました」
東京オリンピックが開催された昭和39年。レジャーブームの受け皿を、と誕生したのが「道後温泉センター」。地下1階、地上4階の鉄筋の建物で大浴場や温水プール、屋上には遊園地まで備えていた。
内木キャスター:
「温泉センターの建設観光文化のつながりは?」
井口教授:
「温泉センターは宴会場やプールがあり、娯楽を空間として提供していく場所。昭和30年代高度経済成長期には、観光地で流行した地域振興のあり方でした」

昭和と今をつなぐ貴重な史料も
観光案内のフィルムには、昭和と今をつなぐ貴重な史料も。
内木キャスター:
「(看板見て)わぁ~ちゃんと残ってますねすごい!」
歳月を重ね風格を感じる木の板に刻まれたのは、「衆楽館」の文字。
道後温泉事務所・白川剛士主幹:
「こちらが道後公園にありました『衆楽館』の看板。道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢が揮ごうしたと言われています」
衆楽館は明治時代から昭和初期にかけて道後公園にあった建物。フィルムに映った看板は、道後湯之町の初代町長で道後温泉本館の改築に尽力した伊佐庭如矢が、120年前の明治時代に揮ごうしたと言われている。
白川剛士主幹:
「当時の人も伊佐庭如矢の功績、道後、松山の恩人なのできちっと残したのでは」

新しい挑戦と歴史的な文化が共存
内木キャスター:
「昔のフィルムとともに道後の町を歩きましたが、移り変わりをどう見る?」
井口梓教授:
「新しい挑戦と歴史的な文化が共存しているのが、道後の一番の特長」
内木キャスター:
「歴史を知ると道後がより魅力的に」
井口梓教授:
「こういう映像や歴史資料があると、街歩きが何倍も面白くなるので、大切にしていくことも重要だと思います」

