2025年は日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目を迎えた年でした。
TSKでは、山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で記録し、お伝えしてきました。
今回、山陰各地で掘り起こしてきた戦争体験者の様々な証言、とりわけその貴重な生の声を改めて届けます。
長田司さん:
飛行機が降りるたびにものすごい土埃。
のどかな田園風景が広がる倉吉市高城地区。
かつてこの場所に存在した飛行場について語るのは、近くに住む長田司さん(91)。
当時は国民学校の6年生で、飛行場の建設に携わりました。
長田司さん:
飛行場を作るから石を持ち上げるのを手伝えと学校から言われた。
太平洋戦争末期、旧日本軍は戦況悪化の中、日本本土での決戦を想定し特攻隊の発進基地として全国40か所に飛行場の建設を企てました。
倉吉市の高城飛行場もその一つで、建設の命令が出されたのは1945年5月。
完成目標は7月末という、まさに終戦間際の突貫工事でした。
そして建設地では、有無を言わせぬ暴力的な手段も取られました。
池田充志さん:
『とにかく飛行場になるので退きなさい』です。たったそれだけ。補償も何もなかった。
滑走路沿いの14軒の民家が、軍によって強制撤去を命じられたといいます。
こうして建設が始まった「高城飛行場」。
建設には、わかっているだけも述べ12万人が動員され、鳥取県内各地から召集されました。
高城飛行場が完成したのは8月10日、終戦の5日前です。
長田さんは「一番機」が到着したことをはっきりと覚えています。
長田司さん:
空中回転や錐揉みをしてみせるからみんな見てろよということで見てました。上がっていって演技をして見せてグルーと回って降りてきて。敬礼して「日本は必ず勝つ、分かったか」と兵隊さんが言った。
しかし、練習機が10機到着しただけで、ここから特攻機が戦地に向け飛び立つことはありませんでした。
さらに皮肉なのが、アメリカ軍にとっては「秘匿」でさえなかったことです。
完成間近の8月6日、アメリカ軍の偵察機が撮影した写真です。
上空から捉えられた滑走路。
無謀な極秘計画はアメリカ軍に筒抜けでした。
長田司さん:
たくさん石が埋もれています。私たちが運んだ石が。多くの方の涙も埋もれているでしょうね。
秘匿飛行場が全国各地に建設されたころ、アメリカ軍による日本本土への空からの攻撃が激化。
空襲被害から逃れようと、都市部の子どもたちは地方に疎開しました。
中山耕一さん:
島根県という、本当に遠いところに行くんやなぁと。
大阪市在住の中山耕一さん(93)。
大阪の国民学校6年生の時に親元を離れ、島根県に疎開しました。
中山さんは大阪を離れた日、昭和19年9月22日のことを鮮明に覚えています。
中山耕一さん:
当時は、親も子もそんなに泣いたりするような感じではなかったです。もうとにかく寂しいというよりも、不安と「これから先どうなるんや」と。
中山さんの学校は、大社町の旅館「養神館」が生活の拠点となりました。
中山耕一さん:
大社中学校で午前中は学校を借りて勉強をやっていた。
勉強や食事の面では不便を感じたことはなかったといいますが、最も辛かったことが…。
中山耕一さん:
冬場は稲佐の浜から吹く海風が寒いのと、衣類の不自由さ、そして何事にも辛抱しなければいけない。
昭和19年の冬、山陰はまだ空襲の標的にはなっていませんでしたが、大阪の街はアメリカ軍による爆撃を受け始めた頃でした。
過酷な寒さに加え、帰りたくても帰れない辛さもあったといいます。
中山耕一さん:
いつも心の中には、大阪の家はどうなっているだろうか、と心配していました。親からの面会といっても、当時は大阪から島根へ行く汽車の切符が手に入らない。軍隊優先だから。
疎開先に選ばれたことからも分かるように、山陰地方は他の大都市に比べて空襲による被害が少なかったとされています。
それでも終戦間際、「山陰が戦場と化した日」があります。
1945年、昭和20年7月28日。
「大山口列車空襲」。
米軍機から隠れるように大山口駅近くに停まっていた列車を米軍機の機銃掃射とロケット弾が襲い、45人以上が犠牲となりました。
戦火の記憶を語る大山町の国野正好さん(85)。
国野正好さん:
ものすごい低空でバリバリと汽車に集中的に撃っていた。
米軍機が去ったあと、けが人は大山口駅で降ろされ、死体と助かる見込みのない人だけを乗せた列車は死体を安置するため、米子駅を目指して走り出しました。
しかし、淀江町あたりで再び米軍機が姿を表しました。
安江英彦さん:
キキキーという音がして、何かと思ったら列車が停まっているわけです。
列車のデッキに死体が折り重なって倒れていました。
松林に隠れるように停車した列車を至近距離で目撃した安江英彦さん。
頭から離れない光景があるといいます。
安江英彦さん:
お父さんが列車に上がって、死体の中から自分の娘を一生懸命探された。そうすると死体の中に埋もれるような形で娘がいて、声をかけたら「お父さん…」とだ
けは言ってくれた。
16歳の少女は、その後すぐに事切れたといいます。
安江英彦さん:
あれから80年も経ったのか…。
同じ日、米軍機は宍道湖の上空にも現れました。
本間順一さん:
スーっと飛ぶんですよ。その時に胴体に星のマークが見えた。
本間順一さん(89)。
低空飛行の米軍機が次々と飛来してくるのを目撃しました。
建設中だった海軍の水上偵察機の基地が攻撃され、25人が死亡しました。
その後、現在の玉造温泉と乃木駅の間で停車していた列車も空襲を受けました。
しばらくして乃木駅に着いた列車の中は…。
本間順一さん:
列車の中を見たら、つり革につかまっているけども片手がないんですよ。その人と目が合って、びっくりして後ずさりした。
列車の乗客14人が犠牲になりました
全国の都市と同じように山陰も“空襲の標的”となり、多くの民間人が命を落とした事実…。
決して風化させてはならない悲惨な戦争の爪痕です。