イスタンブールの人気観光地で、世界遺産のアヤソフィア。今年7月24日には、イスラム教のモスクに改装されてから初となる金曜礼拝が行われた。アヤソフィアはキリスト教の大聖堂として建立され、その後モスクに改装、トルコ共和国成立後は博物館になっていた。

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この日はコロナ禍にも関わらず、アヤソフィア周囲一帯を礼拝のために集まった人々が埋め尽くしていた。

アヤソフィアの周りに集まる多くの礼拝者(7月24日)
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キリスト教絵画を隠さなかったメフメト2世

私が非常に違和感を持ったのは、エルバシ宗教相が礼拝の際の説教で、1453年にコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を征服したメフメト2世の名前を繰り返し出して偉業と信仰心を称え、その「敬虔なイスラム君主」のイメージのみが誇張されていたことだ。

アヤソフィアの美しいキリスト教のモザイク画が布や板で礼拝時以外も覆われてしまったこともショックだった。というのも、メフメト2世の在位期間中には隠されていなかったからだ。「金色に輝く聖母マリアと幼子イエスの壁画の前でひざまずくメフメト2世」という、私が想像していたイメージも覆い隠されてしまったような気がしてとても残念に思えた。

注)モザイク画が漆喰で隠されたのは、1506年バヤズィト2世時代。

キリスト教の壁画が隠される前(左)と隠された後(右)

肖像画が一般公開

アヤソフィアのモスク化とほぼ同時期、トルコではメフメト2世に関するもう1つのニュースが話題になっていた。メフメト2世は、ルネサンス期ベネチア派の著名画家ジェンティーレ・ベッリーニに肖像画を描かせていたが、そのうちの1作品が今年6月、ロンドンで競売にかけられ、イスタンブール市が落札したのだ。

その額、日本円で約1億500万円。この肖像画はイスタンブール解放記念日にあわせて、10月6日に一般公開された。

肖像画を鑑賞する市民

イスラム教というと偶像崇拝が禁じられているため肖像画はタブーなイメージだが、メフメト2世はそうではなかった。彼は西洋芸術に強い関心を持っていた。オスマン帝国は1479年にベネチアと和平条約を締結し、その中には「イタリア人一流画家をイスタンブールに派遣する」という一文が盛り込まれた。

織田信長を彷彿させる

こうして1479年から81年にかけて、イタリアから、ルネサンス期ベネチア派の著名画家、ジェンティーレ・ベッリーニが派遣されたのだ。メフメト2世は彼に豊かな財を惜しげなく与え、自身の肖像画や宮殿の壁画など、数多くの絵を描かせた。現在、この肖像画を展示した「ファーティヒ(征服者)のルネッサンス展」が12月6日まで、イスタンブール市庁舎で開催されている。

初日に訪れた人を取材すると、一様に「胸が高鳴り、鳥肌が立った。涙が出そうだった」などと語っていた。実際に見た絵の中で、メフメト2世は息子のジェムと思われる人物を限りなく穏やかな表情で眺めていた。殺伐としたイメージが強い征服王のプライベートな一面を垣間見たようだった。 

息子と思われる人物(左)を穏やかな表情で眺めるメフメト2世(右)

メフメト2世はトルコ語で「征服者」を意味する「ファーティヒ」と呼ばれ、トルコで「ファーティヒ」と言えば、今でもメフメト2世を意味する。彼が征服王であることに間違いないが、幼少期は風雲児と言われた。

火砲に興味を持ち当時の戦術史を塗り替えたこと、西洋文化や海外先端技術を積極的に取り入れ国籍を問わず才能のある人を重用したこと、志半ばで50歳を目前に亡くなったことなどから、日本でいえば、織田信長を彷彿させるような、非常にグローバルで豪快な人物だったとされる。 

メフメト2世の側近で、彼の伝記を記述したギリシャ人歴史家クリトロブロスによると、メフメト2世はオスマントルコ語以外にギリシャ語やイタリア語など8か国語を話したそうだ。皇太子時代から西洋文化に強い関心を持ち、西洋史やギリシャ哲学を学んだほか、アレクサンダー大王に憧れていたという。

巨砲や要塞を効果的に活用

コンスタンチノープル陥落の際に活躍した大砲といえば「ウルバンの巨砲」だ。開発者であるハンガリー人のウルバンは、当初ビザンチン帝国(東ローマ帝国)側にこの大砲を売り込んだが、拒絶されると今度は反対陣営のオスマン帝国に売り込んだ。メフメト2世はこの後、大型大砲を多数鋳造し、銃火器を使う部隊編成などの戦術転換をヨーロッパにもたらした。

この巨砲は、イスタンブール旧市街を囲むテオドシウス城壁の聖ロマノス門、現在旧市街にあるトプカプ地区に据えられた。「大砲の門」を意味するトプカプの地名はここに由来する。こうしたことから、当時の戦いが単純に「イスラム教 vs キリスト教」という解釈だけではくくれなかったことがわかる。 

メフメト2世が取り入れた「ウルバンの巨砲」(パノラマ1453歴史博物館HPより)

イスタンブールには、日本の援助で1988年に開通した第2ボスポラス大橋(正式名称:ファーティヒ・スルタン・メフメト大橋)がある。このたもとにたたずむのが、コンスタンチノープル攻略戦の要のひとつとなった「ルメリ・ヒサル要塞」だ。

メフメト2世は、征服前年の1452年、海峡の幅が最も細くなるこの場所に3人の側近に分担・競争させて要塞を作らせた。わずか4カ月という驚くほど短い期間だった。対岸に建っていたアナドル・ヒサル要塞と合わせ、ヨーロッパ側とアジア側両岸からの砲撃で海の交通を遮断し、ビザンチン帝国への外部からの供給を断った。

ルメリ・ヒサル要塞の前の海峡を実際に船に乗って通ると、その威圧感をひしひしと感じる。これだけの近距離から大砲を撃ちこまれた船は、どれほど恐ろしかっただろうか。

ルメリ・ヒサル要塞と第2ボスポラス大橋

異文化・他宗教が共存

征服後、アヤソフィアで礼拝を行いイスタンブールに遷都したメフメト2世は、速やかに治安を回復し、異教徒のイスタンブールへの帰還を半ば強制的に奨励した。強い商工業ネットワークを持つユダヤ人は特に歓迎された。メフメト2世の死後間もない1492年にキリスト教国家により、スペインからイスラム政権が駆逐されユダヤ人追放令が出された際にも、オスマン帝国は多くのユダヤ人難民を受け入れている。現在、トルコとイスラエルの不仲が取りざたされているが、トルコはナチスによるユダヤ人迫害時代にも多くのユダヤ人難民を受け入れており、歴史的には親ユダヤ国と言える。

度重なる海外遠征に明け暮れながらも、メフメト2世はトプカプ宮殿を建設させ、ビザンチン水道を整備拡張して市民の水回りを整えた。グランドバザールの原形もこの時代にできた。今、私たちが訪れるイスタンブールの史跡の多くは、メフメト2世に由来する。

メフメト2世は、現在トルコ国境になっている地域に加え、バルカン半島の大半や黒海周辺を制圧し、ビザンチン帝国の領土ほぼ全域を制圧した。トルコ旅行業会の文化観光部門トップであるファールク・ペキン氏の見方はこうだ。

「メフメト2世の幼少期からの野望は、東西ローマ帝国の首都を制しローマ帝国に準じる世界帝国を築くことだった。彼が理想としたのは、多民族・多文化・多宗教の世界国家であり、イスラム国家の拡張ではなかった」

メフメト2世時代のローマ教皇ピウス2世は、オスマン帝国に対抗する十字軍派遣に腐心していたが、1461年には手のひらを返すように宿敵のはずのメフメト2世にキリスト教への改宗を勧める親書を送った。ピウス2世は「キリスト教徒に対する支配拡大と名声を望むなら、キリスト教を受け入れさえすれば、あなたに匹敵する指導者はこの世界に存在しなくなるだろう。あなたが武力で不当に手にしたものを正当に所有することを認める」と提案している。

「ローマ教皇の三重冠を見るよりトルコ人のターバンを見る方がまし」という言葉がある。メフメト2世に滅ぼされ、最後のビザンチン皇帝となったコンスタンティヌス11世が言ったもので、歴史ファンの間では有名だ。当時の正教徒たちには、カトリックへの改宗を強要する西欧諸国より、納税さえしていれば正教の信仰を認めてくれるオスマン帝国の支配を選ぶ人たちも多かった。 

11世紀からアナトリアに王朝を築きはじめたトルコ人とギリシャ人の共存の歴史は、約1000年に及ぶ。大学時代に1年間ギリシャに留学しその後20年以上トルコに住む筆者から見ると、国民性は異なるものの、食文化、習慣、文芸、音楽など、多くの面で共通性を持つ両国民は、個人レベルでは仲が良いし気が合う。エーゲ海に浮かぶギリシャの島々はトルコ人たちが最も好む休暇先であり、トルコの初代大統領で国民的英雄であるアタチュルクは、ギリシャ第2の都市テッサロニキ出身だ。 

ギリシャ系の側近を持ち、ギリシャ哲学を愛読し、ビザンチン皇女を妻にしていたメフメト2世が、意図的にギリシャやギリシャ正教に対抗するイスラム君主のようなイメージで語られているのは非常に残念だ。

今回、メフメト2世の肖像画が公開されたことが、少しでも本来のイメージを取り戻すことに役立つことを期待する。自分の権利ばかりを主張する今の時代の施政者たちが、メフメト2世のグローバルビジョンから学ぶこともあるのではないだろうか。

【執筆:FNNイスタンブール支局 土屋とも江】