第二次世界大戦の後、いわゆるシベリア抑留で強制労働を強いられた男性が3年前から自らの過酷な経験を口にするようになった。男性は「戦争がいかにみじめなものであるかということを皆さんに知らせていくのが私たちの責務」と話す。
シベリア抑留の過酷な運命
100歳になった今なお宝くじの売り場に立つ加藤源一さん。
いわゆるシベリア抑留の体験者だ。

第二次世界大戦の終戦後、旧ソ連軍の捕虜として強制労働を強いられた日本人は約58万人。
その過酷な環境から5万人以上が死亡したといわれ、加藤さんは「飢えと寒さと望郷の念にさらされて、戦争のみじめさをしみじみと体験した」と振り返る。
19歳で出征し、中国で終戦を迎えた加藤さん。
日本に帰れると思っていた矢先、連れて行かれたのは極寒のシベリアの地だ。
待ち受けていたのは終わりのない森林伐採だった。

加藤さんによれば、抑留されていたのは「柵なき牢獄のような山奥で民家は全然なく、丸太で作った兵舎のようなものが所々に散在している本当に寂しい空き地」で、食事は1日2回、わずかなスープと小さなパンだけ。
体は痩せ細り、栄養失調や感染症で仲間が次々と息絶えた。
加藤さんも抑留から1カ月後に倒れ入院。
シベリアでは2年の月日を過ごした。
そんな加藤さんが今も大切にしているのが、シベリアへ行く直前に所属していた部隊の隊長からもらった“飯ごう”だ。
食べる物がない中で雑草を探して煮たり、雪を溶かして水を作ったりしたと言い、この“飯ごう”を見るたびに戦友のことを思い出すそうで、「尊い命を縮めさせられて、故郷に家族・恋人を一瞬にして灰にしてしまう戦争の無念さと残酷さをしみじみと感じた」と声を詰まらせる。

語ることのなかった体験談
この日、加藤さんはシベリア抑留の体験を語るイベントに参加した。

主催したのはピアノ奏者の窪田由佳子さん(70)。
窪田さんの父もまたシベリア抑留を経験している。
窪田さんが「空腹を我慢するのは何よりつらいですよね?」とたずねると、加藤さんは「戦友もほとんど骨・皮・筋だけになってしまい、歩くのがやっとという状態。ほとんどの兵隊が耐えに耐えて『故郷に帰りたい』と言って望みを果たせず、シベリアの地で亡くなったことは本当に気の毒でたまりませんでした」と声を震わせた。
加藤さんがシベリア抑留も含め戦争について話すようになったのはわずか3年前。
旧ソ連が共産主義を広めるために行った赤化教育を受けた日本人として差別の対象になっていたからだ。
ただ、同じ静岡出身の窪田さんと出会う中で語り継ぐことの大切さを感じ、自らの体験を話すようになったという。

加藤さんは、窪田さんが演奏するピアノを聞いたあと「過ぎしシベリアの体験を思い出して、あの苦しかった時を、いまの音楽が流れるのが走馬灯のように感じた」と胸の内を明かした。
語り継ぐことへの思い
戦後80年。

シベリア抑留を経験した人も今はもうほとんど残っていない。
だからこそ、加藤さんは「戦争がいかにみじめなものであるかということを皆さんに知らせていくのが私たちの責務」と自らに言い聞かせるように誓った。
(テレビ静岡)