太平洋戦争の終結から今年で80年。戦争体験者の証言をシリーズでお伝えしています。きょうは、16歳で航空機の搭乗員を目指し予科練習生を志願し終戦を迎えた男性の話です。
中島忠雄さん「(当時)戦争で死ぬことはなんもなかった。死ぬっていうことをあんまり考えきれないような、そういう風な訓練場所になっていたかと思う」
※7月31日撮影 鹿島市の中島忠雄さん。1928年生まれの中島さんは1944年、16歳の頃に海軍飛行予科練習生、いわゆる「予科練」を志願し鹿児島県の鹿屋基地に派遣されました。
中島さん「結局あの時分は飛行機の時代。予科練は中学時代から入ってみたかった」Q飛行機が好きだった?「はい」
中島さんが予科練に入った1944年は戦争の末期で翌年にアメリカ軍は沖縄に侵攻。物資も不足し敗戦の色が濃くなる中、訓練する機体もなく中島さんは経験を積めなかったと話します。
中島さん「結局アメリカ側が沖縄の方まで制空権を握ってしまって。戦争の内容が日本には不利になってしまった」
中島さんは鹿屋から福岡県の周船寺、前原と移駐し実際に戦闘機に乗ることはないまま最後は能古島で終戦を迎えました。中島さん「われわれ予科練の中では(戦況については)そこまであっていなかった。幹部連中では話があっていたかもしれないけど」終戦後、家業の菓子店「ひのでや」を引き継いだ中島さん。もともと和菓子店だった店に大きな被害はなく、アイスやケーキなどの洋菓子を始めたり、販路を拡大するなど新たなことに積極的に取り組みました。中島さん「男の世界は簡単な気持ちはだめ。それだけの力を発揮しないといけない」妻の芳子さんは学徒動員先の長崎県・大村で空襲に遭いましたが難を逃れました。終戦を告げる玉音放送は家の中で両親と聞いたそうです。
芳子さん「(放送を聞いて)死なんでよかったと思った。もう死なんでよかと。常に死と対面していたので」
中島さんは入隊がもう少し早ければ飛行機の訓練を積んで戦地に赴いた可能性もありました。当時は戦争で死ぬことも厭わなかったという中島さん。生き延びたことで多くの子どもや孫に恵まれました。
幸松さん(孫)「孫も何十人っておって、ひ孫もおって、そいで、生き残って今まで長生きしてきてどがん?」
中島さん「最高ですよ」
【アナウンサー】ここからは取材にあたった桑鶴記者とお伝えします。お話を聞いた中島さんですがこの取材の直後に亡くなったそうですね。【桑鶴】はい。話を伺ったのが7月31日で、その4日後の8月4日に亡くなりました。【アナウンサー】急でしたね。【桑鶴】ご遺族によると、取材の翌日に「話し足りなかったことがある」と話していたそうで、そういった話が聞けなかったのは残念です。【アナウンサー】戦後80年を迎え、戦争体験を聞ける人も少なくなってきていますね。【桑鶴】県のまとめによりますと、2023年10月からの1年間で亡くなった80歳以上の人の数は7907人で、戦争を経験した人は毎年確実に減っています。【アナウンサー】このような悲惨な経験を風化させないためにもこういった話を引き継いでいくのは大事ですね。【桑鶴】お盆でご家族が一堂に会する機会もあるかと思いますのでまだ御存命のご家族の方がいらっしゃる場合はぜひ積極的に話を聞いてほしいです。【アナウンサー】今年は秋に県主催の戦没者追悼式も開かれますよね。【桑鶴】これまで戦後50年・70年と20年ごとに実施してきましたが、戦争経験者の高齢化を踏まえことしは10年前倒しで10月に開催することになりました。戦争体験者の証言などのニュースはお盆を過ぎると少なくなってしまいますので戦争を経験されてお話ししたいことがある方はぜひ引き続き情報をお寄せいただきたいと思います。【アナウンサー】ここまで桑鶴記者とお伝えしました。