1945年3月10日午前0時過ぎ、約300機のB29爆撃機が東京上空で大規模な空襲を行った「東京大空襲」。2時間40分ほどの空襲で約10万人が死亡したとされている。路面電車の中で燃えていく黒い人影を横目に、“母の言葉”を守って生き抜いた白石哲三さん(87)。その証言を聞いた。
「暗いほう」を目がけて逃げた“その日”
白石さんが東京大空襲を体験したのは7歳の時。その夜は「本当に寒かった」と振り返る。白石さんは父と母、姉3人と妹の7人家族だった。住んでいたのは現在の台東区。NHK大河ドラマで注目が集まる遊郭の「吉原」があった場所だ。

1945年3月9日夜10時半ごろ、空襲警報で一度逃げる準備をしたが、すぐに解除になった。安心したのも束の間、日をまたいだ10日午前0時7分にアメリカのB29爆撃機による空襲が始まった。しかし、白石さんの記憶では、警報が鳴ったのは空襲が始まった8分後だった。
「その8分が(逃げるために)大事だった」と白石さんは話す。
8分あれば、もっと助かる命があったかもしれない。
突然、階段をかけ上がってくる足音がして、母が大声で「起きろ!空襲だ!逃げる支度をして集まれ!」と叫んだ。
「これから逃げなきゃいけない。逃げるのに大事なことを言うからよく聞け、暗い方を目がけて逃げろ。逃げるには家族一緒じゃないと。最低数は2人。絶対に手を離してはいけない」
母は、家族7人を4組に分け、“暗いほう”を目ざして逃げるように言った。
南の方角を見るとすでに燃えさかる炎で真っ赤だった。
電車ごと燃える人を横目に...
白石さんは3番目の姉と、2番目の姉は4歳の妹と、そして母親と長姉の18歳が一緒になり、父親は一人。4つに分かれて暗いほうを目ざして逃げ出した。B29がかなり低い高度で次々と焼夷弾を投下していき、どんどん火が迫ってきたが、逃げることに必死で空気の熱さを覚えていない。
しばらく進むと、現在では東京に残る唯一の都電となる「都電荒川線」の線路に出た。
「広い道です。そこへ出ますとね、電車が2~3台停まっていましたが、燃えているんです。その中に黒い人が見えた。立っていた。電車ごと燃えているんです」
炎を防げると思って車両に逃げ込んだものの、横に落ちた焼夷弾が電車を燃やして逃げられなくなったのだろう。

その横をどんどん逃げていくと、大勢の人が大きい建物に吸い込まれるように逃げていくのが見えたので、白石さんもその建物に入った。ひんやりしていい気持ちだったことを覚えている。しばらくは静かだったが、その建物の屋根を突き破って焼夷弾が床に落ちた。
「これはもうダメだ」
大勢の人と一斉に飛び出した。後に、その場所が都電の「三ノ輪車庫」だったことがわかった。さらに暗いほうへ逃げると、常磐線が見えてきた。その先にガスタンクがあるということで、大勢の警防団が侵入を阻止していたが、そこを押し切って走り続けると広い原っぱが出現した。

そこには、大勢の人が集まっていた。周りに何も建物が何もなく燃えるものがないため、「ここなら安心だ」ということで座り込んだ。少し安心したのか、うとうとすると同時に初めて「寒い」と感じ、身震いした。当時はその広い場所がどこなのか分からなかったが、後に調べると、日本で最初の近代的な水再生センター「三河島水再生センター(旧・三河島汚水処分場ポンプ場施設)」にたどり着いていたことが分かった。
「母親が言った『暗い方を目がけて逃げろ。手を離すな。他の人と一緒になって行動しろ』この言葉のおかげで暗いところにたどり着けた。これが命を失わないで済んだ私の東京大空襲です」
“おむすび”を見て初めて感じた空腹
だんだんと東の空が明るくなってきて、いつもと同じように太陽が燦々と光を注いでいた。姉と一緒に立ち上がってとぼとぼと歩き出して、焼け野原をさまよっていると、「白石さんの坊やじゃないか!」と声をかけられた。「そうです」と答えると、「おじさんの家はこの近所だ。焼け残っているからまずおじさんの家に行こう」と言われて男性についていった。

すると、書き初めの時に使う半紙に白石さんと姉の名前を書いて、外を通る人が見えるようにガラス戸に貼り出してくれたのだ。
少し待っていると、「おなかすいたでしょー」とおばさんがおむすびを持ってきてくれた。大きいお皿におむすびが2個。ぱっと見たときに初めて「お腹がすいた」と感じたのだった。前の晩から何も食べていなかったが、安心するまでは空腹を感じなかったのだ。嬉しくて、すぐむさぼりついて食べた。その時に見たおむすびは、普通のおむすびより大きく見えた。
男性は父親を迎えに行き、連れてきてくれて生きて再び会うことができた。
父親と一緒に自宅があった場所まで戻ったが、見渡すかぎり焼け野原だった。遊郭で働く人たちとの思い出もすべて消えてしまった。遠くのほうに、焼け残った観音像が見えただけだった。

自宅の焼け跡には、母と一番上の姉がいた。家族7人のうち、5人は再会できたが、2番目の姉と妹には会えなかった。白石さんは父を残して、大森海岸近くに住んでいる叔母の家に身を寄せることになった。その後、2番目の姉と妹が父に連れられて叔母の家に戻ってきた。家族7人、奇跡的に生き延び、再会することができたのだった。
当時の様子を伝える「噫横川国民学校」
白石さんは、横川国民学校の教師として勤務、東京大空襲を生き抜いた書家・井上有一の作品を紹介してくれた。「噫横川国民学校」と題される作品で、当日宿直勤務だった井上が学校に逃げ込んできた多くの生徒たちが死にゆく姿を目の当たりにし、書いたものだ。白石さんは当時の惨状を現実に近い形で表現していると考えている。
アメリカB二九夜間東京空襲 闇黒東都 忽化火海(たちまちひのうみとかす) 江東一帯焦熱地獄 茲(ここ)本所区横川国民学校 避難人民一千有余 猛火包囲 老若男女声なく 再度脱出の気力もなし 舎内火のため昼の如く 鉄窓硝子一挙破壊 一瞬裂音忽ち舎内火と化す 一千難民逃げるに所なく 金庫の中の如し 親は愛児を庇い(かばい)子は親に縋る(すがる) 「お父ちゃーん」「お母ちゃ―ん」 子は親にすがって親をよべ共 親の応えは呻き(うめき)声のみ 全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる 夜明け火焼け尽き 静寂虚脱 余燼瓦礫(よじんがれき)のみ 一千難民悉焼殺(ことごとくしょうさつ) 一塊炭素如猿黒焼(いっかいのたんそさるのくろやきのごとし) 白骨死体如火葬場 生焼女人全裸腹裂胎児露出 悲惨極此(ここにきわまれり) 生残者虚脱(せいざんしゃきょだつ) 声涙不湧(せいるいわかず) 噫呼何の故あってか無辜を殺戮するのか 翌十一日トラック来り一千死体トラックへ投げ上げる 血族の者叫声今も耳にあり
右昭和二十年三月十日未明 米機東京夜間大空襲を記す
当夜下町一帯無差別焼夷弾爆撃 死者実に十万 我前夜 横川国民学校宿直にて奇蹟生残 倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし
ゆういち

「暗いほうを目がけて逃げた。そして、逃げられる場所にいた。これも運だと思う」
白石さんは、しっかりとした口調で振り返った。
※東京大空襲直後の写真は全て江東区立図書館所蔵
白石 哲三さん
1937年10月生まれ
7歳の時に現在の台東区内で被災
家族は父・母・姉3人・本人・妹