福島県会津坂下町に住む伊藤久夫さんは今から約80年前まで、北マリアナ諸島にあるサイパン島のすぐそばにある「テニアン」という島で幼少期を過ごした。そこで、アメリカとの戦争に巻き込まれ、家族で集団自決し生き残ったという体験をしている。もしかしたら最後になるかもしれないという慰霊の旅にジャーナリストの刑部仁さんが同行した。

これが最後…第二の故郷へ慰霊の旅

成田空港から約3時間のフライトで到着する、北マリアナ諸島のサイパン。そこから、小型飛行機で15分ほどの場所に位置するのがテニアン島。
東京の伊豆大島とほぼ同じ大きさで、約2000人が生活している。美しい南国の花々が咲き誇り、「テニアンブルー」と称される世界有数の海がある、楽園の島だ。

慰霊碑に手を合わせる伊藤久夫さん(90)
慰霊碑に手を合わせる伊藤久夫さん(90)
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「また来たぞ。今年は来れないと思ったけど来たぞ。もうこれが最後だな」

伊藤さんはこの地で、家族を失った。この80年間で、23回テニアンへの慰霊の旅を続けてきた。

福島からテニアン島へ移住

福島県会津坂下町。伊藤さんは、山間のこの地で農業を営み生活してきた。4年前に妻を亡くして以来、一人暮らしをしている。
1934年12月に生まれた伊藤さん。当時、福島県の農村部は大凶作により深刻な食糧不足に見舞われた。このため、伊藤さんが生後2カ月の時、伊藤さんの父・久吉(ひさきち)さんは、家族でテニアン島に行くことを決めた。

伊藤さんの家族
伊藤さんの家族

当時、日本の統治下におかれていたテニアン島では、最大で1万6000人の日本人が生活し、サトウキビの栽培が盛んに行われていた。

最後の慰霊は息子とともに

伊藤さんはここ数年で足が悪くなり、テニアン島へ行くことを諦めていたが、息子に背中を押された。今回の旅に、息子の雅利さんが同行することになった。雅利さんは「父がたどった当時を少し思い浮かべながら、感じ取ってきたいと思う」と話した。

かつての居住跡を訪ねた久夫さんと息子の雅利さん
かつての居住跡を訪ねた久夫さんと息子の雅利さん

伊藤さんにとって、3年ぶりとなる24回目のテニアン島訪問。
まず訪れたのは、アメリカとの戦闘の直前に、伊藤さん一家が暮らしていた場所だ。草木が生い茂り、今では、遺跡を残すのみとなっていた。
当時の生活の跡を頼りに、草木をかき分けて捜索を続ける。そして、捜索を続けること15分ほどで見つけることができた。

戦禍に巻き込まれた伊藤さん一家

日本本土を直接攻撃するための拠点として、テニアンに狙いを定めたアメリカ軍は、1944年7月24日、島の北部から上陸する。
これにより、伊藤さん一家を含むテニアンの住民たちは、島の南部「カロリナス台地」へと追い詰められていく。

島の南部「カロリナス台地」
島の南部「カロリナス台地」

「7月30日にこの山全体に艦砲射撃が行われた。洞窟がいっぱいあるんだよ」

このカロリナスのジャングルで、多くの住民たちが身を潜めていた。

「一晩中小さな岩陰に隠れていた。雷がすぐ近くに落ちるようなことが一晩中続いた。明るくなったらこれまで見えなかった空が見える。軍艦も見える」

集団自決を決意

アメリカ軍の上陸から10日目の8月2日。伊藤さん一家は、別の家族と合わせて30人ほどで、1つの洞窟に身を潜めていた。そこで伊藤さんは、凄惨な光景を目にした。

「はじめて艦砲でやられた民間人の犠牲者を見た。小さな子供が木の枝にぶら下がっていた。それを見た父が、こんな家族バラバラに死ぬよりも、手榴弾を持っているから一緒に自決しましょうと」
「するとアメリカの黒人兵5人が近くまできて、出てこい出てこい!カモンカモンと」

テニアン島に上陸したアメリカ軍
テニアン島に上陸したアメリカ軍

一緒にいた6つの家族が一斉に、手榴弾を使って集団自決を計った。
しかし、伊藤さん一家のものを含む3つが不発に終わる。無傷だった伊藤さんの父が行動に出た。

「みんなが苦しんでいるのに、我々家族だけはみんな生きている。それで洞窟内からマサカリのようなものを探してきた。生きている人、苦しんでいる人たちを全部叩いて殺した。私たち家族も叩かれた。私も叩かれた後意識を失いました」

伊藤さんと母は、アメリカ兵に収容された後、意識を取り戻した。しかし、父にマサカリで叩かれた妹の千江子さん(当時8歳)と政子さん(当時3歳)は亡くなった。

「我が子を叩く、叩いて殺すということは憎いからではない。愛情があるから、愛があるから殺したんだよ。信じられないかもしれないけど、これが本当の真実です」

息子へ引き継がれる慰霊の思い

手榴弾を使った人そして海に身を投じた人など、追い詰められた住民の多くが犠牲となった。足が悪くなった伊藤さんは、今回、カロリナスの奥深くにある、集団自決をした洞窟を訪れることはできなかった。

父の話に耳を傾ける雅利さん
父の話に耳を傾ける雅利さん

息子の雅利さんは「できる限り慰霊的なことも含めて、テニアンにはまたぜひ来たい。最終的に自決をしようとした洞窟には、いつか行きたい。そうすることで、全てがつながるような気がする」と語る。

平和への思いの中で飛行場再建

長年、慰霊の旅を続けてきた功績により、伊藤さんはテニアンの名誉市民に認定されている。そのテニアン島では現在、アメリカ軍による飛行場の再建工事が進められている。アメリカ軍は、戦争を抑止するためという立場をとっているが、戦後、軍時目的で使用されることのなかったテニアンの飛行場再建は、住民に大きな衝撃を与えている。

テニアン市長と
テニアン市長と

戦時中、アメリカ軍に占領されたテニアン島では、北部に大規模な飛行場が整備された。その跡地には、今も原子爆弾を搭載したピットが2つ残されている。
この飛行場から発進したB29爆撃機により、1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾が投下された。

原子爆弾を搭載したピットが2つ
原子爆弾を搭載したピットが2つ

終戦から80年。誰もが望む、戦争のない世界を実現するために。私たちがどのような道を進むのか、いま問われている。

【取材後記】

テニアン島は、海水が透き通っていて南国の花が咲き誇りすばらしい島だと感じる。その一方で、例えば美しいビーチのすぐそばには、錆びついた兵器の一部が転がっていたり、島の至る所には戦車の残骸や墜落した飛行機などがそのまま残されていたりして、島の美しさとのコントラストが、より大きくショックを受けるというのが率直な感想。

いまも残る戦争の跡
いまも残る戦争の跡

伊藤さん一家が集団自決をした前日に、伊藤さんたちが潜んでいた洞窟に、日本兵が2人入ってきて1時間程度話をしたという。「このカロリナスのジャングルは民間人の死体でいっぱいで地獄そのものであると。そして、自分たちも敵軍に向かって玉砕する覚悟である。しかし、こうした惨状を日本の方々に、そして自分たちがこのまま玉砕することを自分の親に伝えてくれる人が誰もいない。そのことが大変心残りである」と。日本兵はそのまま出ていき、そしてその後会うことはなかったという。

テニアン島を訪れた伊藤久夫さん(2025年7月)
テニアン島を訪れた伊藤久夫さん(2025年7月)

伊藤さんは、この日本兵から聞いた話が80年経った今も頭から離れず、伊藤さんが伝える活動を続ける原点になっていると話す。
伊藤さんのお話を聞き、改めて平和な暮らしができることに感謝をしたい。

<刑部仁(おさかべ じん)>
1982年5月16日東京生まれ、43歳。
大学卒業後、関西テレビに入社し報道セクションに所属。ドキュメンタリー番組の制作やニュースの特集制作に従事。
2022年に関西テレビを退社後、会社経営を行いながらフリージャーナリストとしても活動。主に、戦争や教育、哲学的な分野を深掘りしてジャーナル活動を続けている。

(福島テレビ)

福島テレビ
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