4歳の時に阪神・淡路大震災で母を亡くし、多くの人に支えてもらった女性。
成長した女性は「今度は自分の番」と、同じような境遇の子どもたちを支えるようになった。
■【動画で見る】4歳で遺児となった少女 家族の朝ごはんで台所に立っていて亡くなった母 いま同じ境遇の少女を見守る
■震災から30年 今だからこそ、伝えたい。亡き母への思い

1月11日、震災で親を亡くした人たちが集まり、追悼と交流のつどいが開かれた。
その会場で福井友利さん(34)は、亡き母への思いを語った。
福井友利さん:阪神・淡路大震災から30年がたとうとしています。どれだけの年月がたっても、亡くなったお母さんに会いたいと思うし、お母さんがいたらなって思ってしまうことがあります。
■「家族より先に起きて朝ごはんの準備をしていた」母を亡くす

福井友利さん:1階がぐちゃぐちゃになって、2階がそのままストンって、落ちて1階の上に乗っかってる感じ。
当時、福井友利さん(34)はまだ4歳だった。
幼い2人の娘を残しこの世を去った母・幸美さん(当時31歳)。
あの日、家族より先に起きて、朝ごはんの準備をするため台所に立っていて、犠牲になった。
福井友利さん(2011年・当時21歳):お母さんのことはほとんど覚えてない。自転車の後ろに乗って、一緒に買い物に行ったとか。前髪をちょっと切ってもらったりとか。それくらい。
お母さんのことをあんまり覚えていない自分が悔しい。
■学校の友達に言えないことが言える特別な場所「親を亡くした子どもたちのつどい」

そんな友利さんにとって特別な場所がある。
震災で親をなくした子どもたちのために、あしなが育英会が設立した「神戸レインボーハウス」。
震災が起きた年の12月、父に連れられて参加したのが、親を亡くした子どもたちのつどいでした。
自分と同じ境遇のお兄さんやお姉さんの前では、抱え込んできた寂しさを打ち明けることができたのだ。
福井友利さん:学校の友達には言えないこともあるけど、レインボーハウスで会った友達には言える。寂しいとか。同じような境遇やから。
自分と同じように、親を亡くした子どもたちとの出会いが彼女を支えてきた。
■東日本大震災では被災地を訪れ 親を亡くした子供に寄り添う

2011年3月に東日本大震災が起きると、大学生だった友利さんは、毎月のように東北の被災地を訪れた。
親を亡くした子どもたちに会うためだ。
福井友利さん:ゆっぴです。4歳のとき、阪神・淡路大震災でお母さんを亡くしました。
梶原真奈美さん(2011年・当時8歳):ママを津波で亡くしました。
梶原真奈美ちゃんは、消え入りそうな声でそう言った。
大好きだったママ・希久美さん(当時37歳)は、津波の犠牲になった。
真奈美ちゃんは当時、祖母の精子さんと、いとこの家族と一緒に暮らしていた。
真奈美ちゃんの祖母・精子さん:『ゆっぴお姉ちゃんもね、津波はないんだけど、地震でお母さん死んじゃったんだって。だから真奈だけじゃないんだ、お母さんいないの』って、なんかそこで親しみを抱いたじゃないかな。真奈美は。
■「今度は自分の番」神戸で受け継がれてきた思い

「つどい」には子どもたちが思いを語る、『おはなしのじかん』があった。
真奈美ちゃんに順番が回ってきたが、話すことができない。
福井友利さん:パスでもいいよ。
何も話せなかった彼女の気持ちを、周りの大人がそっと受け止め、長い時間をかけて心に寄り添い続ける。
福井友利さん:今まですごく支えられてきたから、今度は自分の番かな。
福井さんたちと遊ぶうちに、真奈美ちゃんは笑顔に。
子どもたちの姿を、幼い日の自分に重ねる。
ひとりぼっちにしないこと、普段吐き出すことができない思いにそっと寄り添うこと、何かを与えるのではなく一緒に前に進もうとすること、それは神戸で受け継がれてきた思いだ。
それぞれの道を歩みながら、かつて自分がしてもらったように、友利さんは真奈美ちゃんに寄り添い続けた。
■時間をかけて心の整理 あの時話せなかった母への想い

友利さんは今、茨木市の中学校給食センターで、管理栄養士として働いている。
高校生の頃、家族の食事を作っていたことがきっかけで、栄養士を志したのだ。
そして、大学生になった真奈美さんは、この春から食品関係の会社に就職することが決まっている。
梶原真奈美さん(22):就活の時とかも、家族には相談してなかったんですけど、ゆっぴには言ってました。
まさか同じ職業の道に進んでるとは思わなかったので、こんなことあるんだなって。境遇も似ているし、選んだ職業も似てて、うれしい気持ちがあります。
(Q.今、大人になってお母さんのことは?)
梶原真奈美さん(22):自分の人生の半分以上は、お母さんがいない状態で生きてきて。やっぱり大きくなったところとか、成人式とか見てほしかったし、お酒とか一緒に飲みたかったなって。いまはすごく思うときあります。
あの頃話せなかった自分の気持ち―。
時間をかけて向き合った今、心の整理ができるようになった。
■震災遺児代表としてあいさつ「お母さんが残してくれた出会いを大切にして生きていきたい」

友利さんはことし、神戸レインボーハウスで開かれた、震災30年の追悼のつどいで震災遺児代表として、あいさつに立った。
今だからこそ、伝えたい。亡き母への思い。
福井友利さん:この30年間いろいろなことがあり、たくさんの方々に出会いました。やはり一番大きな出来事は東日本大震災だったと思います。
出会ったとき小学生だった子どもが中学生、高校生となり、気づけば社会人として働いていると聞いたとき、子どもたちの成長を、ひと時でもそばで見守ることができ、うれしかったです。
お母さんは最後にたくさんの人との出会いを残してくれました。お母さんが生きていれば、出会うことはありませんでした。
お母さんが亡くなってしまったことは、寂しく悲しいことで、会いたいという気持ちは今でも変わりません。でも、お母さんが最後に残してくれた、この人たちとの出会いを、これからも大切にして生きていきたいと思います。
(関西テレビ「newsランナー」2025年1月15日放送)