あの日、家族を亡くし、3人だけになった幼い兄弟。長崎・五島列島の祖父母に引き取られ、それぞれに成長した。30年を経て思う「家族の絆」とは。
■【動画で見る】生き埋めになった母と姉 3兄弟を育て上げた『おばあちゃん』「頑張って稼がないかんじゃ。働いて食わす。無我夢中じゃった」
■4歳で被災し長崎の祖父母に引き取られた男性「記憶あるような、ないような」

千代田健志さんと康志さん、34歳。双子の兄弟は兵庫県宝塚市で生まれた。
千代田健志さん:なんか記憶あるような、ないような、でもあんまりやっぱ覚えてないなって感じですね。
千代田康志さん:こういうところで、お母さん、お姉ちゃんとの思い出ってあんのかなって考えたりはしたんですけど、やっぱり僕からすると懐かしいような感じはなくて。覚えてないから。

シングルマザーで4人の子供を育てていた母・さと子さん。優しかったという印象しか残っていない。2人は宝塚での生活について、ほとんど覚えていない。
阪神淡路大震災は4歳の時。住んでいたアパートが全壊し、家族全員が生き埋めとなって、母・さと子さん(当時32歳)と小学校1年だった姉の萌ちゃん(当時6歳)が亡くなった。
■母を亡くした幼い兄弟は長崎の祖父母のもとへ

7歳上の兄・雄輔さんと幼い2人。身寄りがなくなった3人を引き取ったのが、当時60歳を超えていた祖父母だ。長崎県の五島列島で3人は育った。
子どもたちのために料理を作ってくれていた祖母は…。
千代田小夜子さん(2004年):これだけあっても足らんから…。
老夫婦2人の家に育ちざかりの男の子が3人。「親がいないから…」子供たちがそう思われないよう必死だった。
千代田雄輔さん(2004年):食った皿は全部自分で持っていけって。

自分が弟2人を守る、兄・雄輔さんは、そう思って生きてきた。
千代田雄輔さん:弟とは別れたくない。家族を失っていて、これ以上は離れたくない。

母親代わりとなった祖母・小夜子さん。還暦を過ぎてから2度目の子育てだった。
千代田小夜子さん:健志、7時過ぎとーよ。
千代田小夜子さん:ご飯、もっとおかわりあればよかったけどね。よか?おかずが多かったからね。

千代田小夜子さん:にぎやかもなんも、食わすことで大変じゃった。たまには兄弟げんかもしたし。
Q.3人男の子がいてご飯は大変だった?
千代田小夜子さん:大変だったよ。2升(20合)ずつ炊いたよ。牛乳とかよう飲んだ。1週間で15本。結局ジュースも飲みたいわけよ。
食べ盛りの子ども3人を育てるため、農業に加え、しめ縄づくり。祖父母は働き続けてきた。
千代田小夜子さん:頑張って、頑張って稼がないかんじゃ。お金ば。そして働いて食わす。無我夢中じゃった。

兄・雄輔さんは高校卒業後、大学に進学せず長崎県庁に就職。五島支所に勤め、まだ小学生だった弟がいる祖父母の家に残った。
千代田雄輔さん:家族と一緒にいたいっていうのは強い。離れたくないというか、実際じいちゃんとばあちゃんやし、弟はまだ小さいし、心配という面もあるし。
■成長した弟たちは関西へ

一方で、健志さんは高校を卒業すると、看護師を目指し、神戸の看護学校に進学。かつて住んでいた宝塚のことを知りたい、母と姉を奪った震災のことを知りたいという気持ちもあった。
千代田健志さん:おじいちゃんとおばあちゃんに育てられてきた。2人がしんどそうな姿を見てきた。そういう人たちのお手伝いができたらいいなと思って。

そして看護師となり、神戸で出会った生子さんと結婚。 結婚式のとき、80歳を超えていた小夜子さん、孫の晴れの姿がとてもうれしかったようだ。
千代田小夜子さん(2013年 健志さんの結婚式でのあいさつ):必死に頑張って、10年が過ぎ、次は成人するまで頑張ろうと、老体にむちを打って育ててきました。覚えているかな。『お母さんがいればいいなと思うじゃろ?』とばあちゃんが聞いたら、健志は『いや、じいちゃんとばあちゃんがいれば十分だよ』と言ってくれたね。とてもうれしかったです。涙が出ました。
祖父・七郎さんは2人の成人式を見届けて亡くなった。
■健志さんと康志さん 震災に遭った宝塚を訪ねる

いま、2人の子の父となった健志さん…
千代田健志さん(34):僕らがしっかり大人になるというか、こうやって大きくなることができたのは、一番はおじいちゃんとおばあちゃんで、2番は雄輔お兄ちゃんの存在が大きかったんじゃないかなと思います。
千代田健志さん:(兄は)厳しかったですね。お兄ちゃんの中でもプレッシャーに思う部分もあったんでしょうけど。僕ら双子の兄弟をしっかり親代わりにならないといけないっていう思いもあったのかな。

康志さんも、高校卒業後、福岡の美容学校に進み、今は神戸市で美容師として働いている。
千代田健志さんと康志さん:久しぶり~。おっす。
亡き母と姉と過ごした日々を、雄輔さんからは何度も聞かされてはきたが…
千代田健志さん:たぶんそっちかな。完全に潰れちゃって、今は新しいアパートが建ってる。
千代田康志さん:みんな横で寝てた気がするんやけどな。
千代田健志さん:記憶にない。
■亡くなった姉・萌ちゃんの生きた証「萌ちゃん文庫」

それでも、ここには、姉・萌ちゃんの生きた証が残っていた。 萌ちゃんが通っていた仁川小学校では、読書が好きだった萌ちゃんをしのび、震災を語り継ぐために、「萌ちゃん文庫」が設けられた。
ただ、月日がたつにつれ、その存在も忘れられるように。 しかし10年前、震災20年となる2015年に、校長だった荻野雅憲さんがリニューアル。今に続いている。
仁川小学校 荻野雅憲元校長:本をいくつか買ったり、本箱を整えたりして、震災の歴史を示してというようなことにしたんですけど。その後も歴代校長、教頭中心に維持してくれています。
千代田健志さんと康志さん:素敵。ありがとうございます。本当にうれしい。
千代田健志さん:お姉ちゃん、ここでみんなと一緒に学校生活を過ごしてもらっているみたいな感じで。弟としてもうれしいなあと。

震災を語り継ぐ。改めて、その意義を考えている。
仁川小学校 荻野雅憲元校長:次々と災害が起こるんでね、なかなか自分が実行して、何かで実践していくというのはできへんのだけど、教育に携わっているものとしては、子供たちにしっかり事実を伝え、そしてそこから学んだ生き方を伝えていくっていうのは、常に積み重ねていかなあかんのかなって思うんです。
千代田健志さん:震災の何を伝えなきゃいけないのかって言ったら、恐ろしさだけを伝えていくのではやっぱり違うじゃないですか。やっぱり何も知らない子供たちに震災って怖いことだよと伝えても、その時点で『あ、怖いことなんや、ちょっともう関わりたくない』みたいな。そういうマイナスな感情を与えてしまったら、そこから先がやっぱりつながっていかないんで。
千代田健志さん:すごい怖い体験をしたけど、その怖い体験の後に、こんなに温かい人たちと出会えた、温かい人たちに支えられた。そういう経験が今の自分たちを支えているんだよっていう、プラスな面をしっかり伝えていきたいなというふうに思います。やっぱり萌ちゃん文庫もそうやけど。
■3人の男の子を育てた祖母「3人とも家庭を持って、横道にそれず、よかった」

五島に残った雄輔さんも、今は長崎市の本庁に転勤。一人暮らしとなった小夜子さんの元をときどき訪ねている。
千代田雄輔さん(41):働き始めてお金を稼ぐ大変さも知ったし、自分に子どもができれば子育ての大変さも身に染みて分かるので、感謝しかない。
千代田小夜子さん(90):過去考えたらいろいろあった。3人とも家庭を持って、横道もそれず、よかったよかったって自分に言い聞かせている。
30年を経て、それぞれに成長し、家庭をもった3人の兄弟。
小夜子さんへの恩返しが始まっている。
■30年前の震災からいまにつながる家族のストーリー
祖母の小夜子さんが、お母さん代わりとなって3人のお孫さんを育て上げた。ただ亡くなったお母さんのさと子さんはお子さんにたくさんの愛情を注ぎたかったのではないだろうか。

エッセイスト 犬山紙子さん:地震が奪うもの、そしてその後人々がどうやって生きてきたのか、その助け合う強い力みたいなものをすごく感じました。ただ当時まだ『ヤングケアラー』という言葉もない中で兄の雄輔さんが、一気に大人にならなければいけない事情もあったのかなということも考えます。社会がもっと何ができたのだろうという姿勢は必要なのかと思います。
エッセイスト 犬山紙子さん:能登の震災で、子供たちが1年たった今になって精神の不調を訴え始めているという話も聞きます。できることを、どんどんやっていきたいなと思いますね。

そして萌ちゃんの存在。「萌ちゃん文庫」が震災を知らない世代に震災と向き合うきっかけを作ってくれた。
大阪大学大学院 安田洋祐教授:萌ちゃんもですし、このご家族を見ていて感じるのは、震災から30年近くたちますけれど、今につながるストーリーみたいなものをみなさん背負われているのかな。
大阪大学大学院 安田洋祐教授:家族と一緒にいたいと島に残って、県庁に勤めたお兄ちゃんもそうです。おじいちゃんおばあちゃんの苦労する姿を見て看護師を目指した健志さんもそうだし。なくなったけれどもいまに物語を伝え続ける萌ちゃんも。本当に何か今につなげて、バトンじゃないですけど、つながっているのかなと強く感じましたね。
吉原功兼キャスター:看護師として活躍されている健志さんの思いというのは伝わっていますし、おばあちゃんの小夜子さんのほっとした表情というのが、最後子育てを終えたというのが、本当に印象的でした。
(関西テレビ「newsランナー」 2025年1月14日放送)