下重:
お母さまは、そんなに死を不安に感じていらした?
秋吉:
ものすごく不安そうでした。ものすごく、です。具合が悪くなった母はナース・ステーションの向かいにある小さな個室に入院していたのですが、別の広めの個室が空いたので、そこへ移ってもらおうとしました。
そちらは、スペースにゆとりがあって何人かが訪れても手狭にならなかったし、身内が泊まるための簡易ベッドもあったので、看護する側にも看護される側にもよかった。なにしろ11人きょうだいですから、親戚もたくさん。お見舞い客も多かったんです。
でも、母は移ることをいやがりました。ナース・ステーションから離れるのを怖がったんです。朝から晩まで、看護師さんたちの気配を常に感じていたかったから。
下重:
そのお気持ちはわかる気がする。がんの告知はされたんですか。
秋吉:
それが、できなかったんです。信頼する担当のお医者さまが、「僕は患者さんを怯えさせずに告知できます。ご本人の気持ちを落ち着かせ、じょうずに話せて、いつも成功しています」そう話してくださってお任せしたのだけど、ドクターに告知をする隙を与えなかった。百戦錬磨の先生よりも、母のほうが手練だったというわけです。
それでいて、私が病室に付き添う晩だけ、こんなことを聞くの。
「私の病気は重いの?」
「病名はなんなの?」
「このあとどうなるの?」
さらにこんなことも──。「死んだら、身体は焼かれてしまうんでしょ?私はこの世から消えてなくなるの?」私のほうが母親で、幼い娘から質問されているような気持ちになりました。
下重:
重荷を背負ったのね。
秋吉:
子どもの頃から、家族のなかで私が“命の最後”を引き受けてきたように感じます。うちで飼っていたスズメや金魚が死んだ時も、私がお墓をつくってお弔いしました。
父が死んだ時も同様です。自分はそういう役割を与えられた存在なのだと思っていた。でも、母の臨終では上手にできなかったんです。私は、母が理想とする娘ではなかったのかもしれません。
女優の秋吉久美子、という公的なイメージ上の存在ではなく、自分がよく知る等身大の「久美子」ならば、自分の最期をしっかりと引き受けてくれるはず──。そんな母の期待に、私は応えることができなかった。
母の死を前に、私はまるで自分の子どもを葬(おく)るかのような気持ちになりました。

秋吉久美子
1954年生まれ。1972年、映画『旅の重さ』でデビュー後、『赤ちょうちん』『異人たちとの夏』『深い河』など出演作多数。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修了。
下重暁子
1936年生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。民放キャスターを経て文筆業に。著書に『家族という病』『極上の孤独』など多数。