地雷源越え“徒歩脱北”相次ぐ
韓国と北朝鮮の間には軍事境界線から南北にそれぞれ幅2㎞、全長248㎞にわたって非武装地帯(DMZ)が広がる。
南北分断の象徴であり、双方の兵士が対峙する最前線でもあるこの場所で最近、異変が相次いでいる。
8月20日未明、北朝鮮軍の兵士が江原道高城地域の軍事境界線を越え、韓国側に亡命した。
軍当局はこの兵士が軍事境界線から徒歩で南に向かって降りてきた時点から監視と誘導を続け、亡命意思を確認した後、身柄を確保した。
兵士は下士官で北朝鮮軍の軍服を着用していた。現役兵士の亡命は2019年以来という。
軍事境界線の周辺は厳しい監視体制が敷かれており、越境を阻止するため大量の地雷が埋められている。地雷源だらけ危険地帯から命がけの脱出――スリリングな場面は、「愛の不時着」など韓国の人気ドラマや映画で格好の見せ場として描かれてきた。
脱北兵士も危険と隣り合わせの脱出劇に挑んだ。地雷源を巧みに避け移動していることから、地雷設置作業に動員され設置場所を熟知していた可能性が指摘されている。
北朝鮮の金正恩総書記は2023年末、これまでの統一方針を大きく転換し、韓国を統一の対象ではなく「敵国」「交戦国」と規定した。これを受け北朝鮮側は、4月ごろからDMZ周辺で地雷を増設し、対戦車防御壁の設置など防御を強化する作業を進めてきた。
この記事の画像(4枚)韓国国防省が公開した写真では、北朝鮮兵士が地雷が入っているとみられる箱を背負って移動する姿や、女性兵士が地べたに座って食事を取る様子などが捉えられ、大量の兵士が動員されたことが見てとれる。
北朝鮮兵士らは炎天下に1日12~13時間も作業を強いられ、熱中症で倒れる兵士が運ばれる場面も確認されたという。また、地雷埋設中に10件の爆発事故が発生し、複数の死傷者が出たとされる。
韓国当局は過酷な労働環境から、兵士の脱北が増える可能性があると見て警戒していた。
食糧難と韓国へのあこがれ
兵士だけではない。8月8日未明には、北朝鮮住民1人が漢江河口の南北中立水域を徒歩で渡り南側に亡命した。河口の水が引いたタイミングで韓国側に渡ったと見られている。
相次ぐ北朝鮮からの“徒歩脱北”は一体、何を意味しているのだろうか。
韓国メディアによると、北朝鮮兵士は亡命の理由について「現在、北朝鮮住民の多くが飢え死にしている」「そのような部分で心境に変化が生じた」などと述べた。また、韓国文化に対する憧れにも言及したという。
洪水被害にともなう人命救出から復興のための建築作業まで、北朝鮮ではありとあらゆる作業に軍人が動員される。これまで食糧面では優遇されていたはずの兵士も新型コロナウイルスで北朝鮮全土が封鎖されて以降は、食糧難に直面しているようだ。
韓国のシンクタンク・統一研究院によると、前方に配置された北朝鮮軍兵士のうち30%程度が栄養失調に苦しんでいるという。兵士らが疲弊し、不満を募らせるしかない状況の中で士気は落ち、北朝鮮軍の綱紀にも緩みが生じていると考えられる。
韓国軍は北朝鮮によるゴミ風船の散布に対抗し、7月21日から前線地域で拡声器放送を全面的に再開した。韓国の発展状況を伝える内容やK-POPなどを1日十数時間、大音量で流す。こうした放送は、北朝鮮軍兵士やDMZ周辺に住む北朝鮮住民に心理的な揺さぶりを与え、長期的に脱北を促す可能性がある。
金暎浩(キム・ヨンホ)統一相によると、8月に入って徒歩脱北した北朝鮮住民はいずれも20代男性だそうだ。2023年に脱北した196人のうち、50%以上が20~30代で若者世代に脱北志向が広がっているといえる。
北朝鮮は2020年にK-POPや韓国ドラマの視聴、流通にかかわった者に死刑も含めた厳罰を科す「反動思想文化排撃法」を制定し、韓流の徹底排除に本腰を入れ始めた。2023年には「オッパ=お兄さん」「ナムチン=彼氏」など韓国風の言葉使いを禁止する「平壌文化語保護法」も追加された。
韓国を統一対象ではなく「敵国」と断定したのも、韓流文化の浸透を徹底的に阻止し内部結束を図る方針と一致する。
しかし、金正恩指導部が統制をどれだけ強化しても、韓流文化の根絶には手を焼いているのが実情だ。
北朝鮮住民の外部世界の情報に対する欲求は高まっており、金暎浩氏は「(統制は)成功しないだろう」とみている。
被災者に「住民」と呼びかけた理由
「水害地域住民のみなさん! こんにちは」
大規模洪水被害が発生した義州郡で金正恩総書記は被災者を前に演説した際、北朝鮮で通常使われる「同志」や「人民」ではなく、「住民」という言葉で呼びかけた。
「住民」は韓国式、民主主義国家的な表現であり、北朝鮮では禁句に近い。演説全体でみると「住民」の使用は14回に及んだ。従来の「人民」は27回、「同志」は7回だった。
この他にも「お年寄り」を「オルシン」、「テレビジョン」を「TV」、「水」を「飲料水」と呼ぶなど韓国的な表現が随所に使われた。
国語辞典には、「人民」は「国家・社会を構成している人々。特に、国家の支配者に対して被支配者のこと」とある。これに対し、「住民」は単にその地域に住んでいる人々を指す。演説の英訳で住民は「inhabitant」、人民は「people」と訳されていた。
前述のように北朝鮮では法律まで作って韓国式表現を取り締まっている。にもかかわらず、金総書記自ら、韓国式表現を使ったことは北朝鮮の人々を驚かせた。
反発を買うリスクもある中で韓国式表現を使ったのは、「うっかりミス」なのか、それとも「あえて使用」したのだろうか――。
北朝鮮では7月末に大雨で中国と北朝鮮の境界を流れる鴨緑江が氾濫し、新義州など周辺一帯で大規模な浸水被害が発生した。
北朝鮮メディアは、金総書記が現地に軍用ヘリを派遣し自ら陣頭指揮を取り4200人を救ったと報道、その後も金総書記が救命胴衣をつけずにゴムボートで浸水地域を視察する様子を大々的に宣伝した。
最高指導者が危険を顧みずに被災民のためにつくす姿を演出することで、住民の不満を抑え、非難の矛先が金総書記に向かわないようにするためだ。
併せて、被災者への手厚い配慮も強調している。被災者のうち子どもや高齢者、病弱者、障がい者ら約1万5000人を平壌に避難させたのもこれまでにない特例措置だ。
金総書記が演説の冒頭「住民のみなさん」と呼びかけたのは、支配者を除く「被支配者」としての「人民」ではなく、党・指導者との一体感を強調したかったためではないか。
また、「住民」をキーワードにすることで、被害救済のあり方を見直し、新たな指導者の姿を印象付ける狙いもあるだろう。
住民の離反を最大限食い止めるために、韓流の「禁句」まで使って見せた金総書記。洪水被害、食糧難などの危機に直面する中で、住民の不満をどこまで抑え込めるのか。
脱北者の増加も含めて目が離せない状況が続く。