「ムツゴロウさん」と戦争の記憶

福岡から飛行機を乗り継ぐこと約3時間。
到着したのは、広大な大地が広がる北海道中標津町。酪農王国でもある北海道は、のんびりと過ごす牛たちや、天然記念物のタンチョウにも出会える。

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穏やかに時が過ぎていく、緑あふれる場所にその人は笑顔でいた。

ーーこんにちは

畑正憲さん:
お待ちしてました、どうもどうも遠い所から

優しい口調で出迎えてくれたのは、「ムツゴロウさん」の愛称で親しまれている畑正憲さん(85)。

「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」など、世界中を飛び回って、動物や自然を紹介する番組にも出演していた畑さん。
当時、動物たちと全力で触れ合うその姿は、テレビの前の多くの人を魅了した。

現在85歳。以前は自ら牧場を経営するなど活発な生活を送っていたが、現在は妻の純子さん、そして犬や猫と一緒に静かに過ごしている。

そんな畑さんが、壮絶な戦争体験者ということはあまり知られていない。

福岡から満州 そして大分へ…日常で触れる生と死

おかっぱ頭にふっくらした面立ちが印象的な男の子。1935年、福岡市博多区に生まれた畑さんだ。

畑正憲さん:
屋根によじのぼって、屋根が割れて、下に落っこちちゃったりしていたらしいです(笑)相当、わんぱくだったらしい

父の敏雄さんは、市内の病院で代診を務める医師で、畑さんは3歳まで福岡・博多で過ごした。
その後 5歳の時、父・敏夫さんが当時の満州の大分開拓団所属の医師になることが決まり、一家は海を越えて満州に移住することになった。

畑正憲さん:
普通の列車で、長いことかけて満州の大陸をずーっと北まで行きました。2日ぐらいかけて奉天までいって、新京まで行って、それで一面坡まで行くというのは大変だった

中国の大連から大分開拓団の集落までは、1000km以上の道のり。福岡から東北に着くほどの距離だ。

さらに、一面坡の駅から北に向かい、一家が辿り着いた場所は満州の北の果てだった。

畑正憲さん:
夏は40度を超します。それから冬は、どうかするとマイナス50度になる。全部自分たちで畑や田んぼを耕した。そういう所だった

畑正憲さん:
夜に一回…その頃、「匪賊(ひぞく)」って言っていたけど、今で言えばパルチザンのこと…とにかく撃ち合いになりましてね。全部、家の中に閉じ込められるんですよ。
そうすると、掘り炬燵があって、掘り炬燵の中にいるんですけど、震えが来るんですよね。ガタガタガタガタと、自分でもびっくりする具合。ひゅひゅひゅるーと弾が来るんです、弾の音がするんです。撃たれたりした者もいた。
うちは医者だったから、全部、運ばれてきた。それで患者が来ると、診療室に置けないから、重症になると居間に来る。子どものいる所でいろんなことが起きるから、生と死には触れっぱなし、それが日常になっていた

3年にもわたる満州での壮絶な生活。小学生になり、家族や友達と過ごしていた畑さんだが、小学2年生への進学を目前にした1944年3月、満州を去ることになる。

兄・親幸さんが日本の学校に進学するのを機に、父の実家がある大分県の日田に兄弟だけで移ることになったのだ。
しかし、時は太平洋戦争の真っただ中。韓国・釜山港から博多に向かう船で、畑さんはさらなる戦争の恐怖を体験することになる。

畑正憲さん:
船員が来て、「みんな潜水艦がきているから、敵潜水艦だから、いつやられるか分からないから、こんなところにいちゃだめだ」って言って、みんな上がれって言って、全員、甲板に上がらされたんですよ。
ばかでかい船の中に、何百人も乗ってるんです。それが今度は座席争い。よりかかれて、安心して波も避けられるような席を探すんですよ。でも無い。
寒いのなんのっていうもんじゃないですね。本当に震えがきてね、でもお国のためだから仕方ないですね。とにかく最後まで分からなかったですよ、いつやられるかっていう覚悟はしていました。とにかく必死に耐えていたんです

死と隣り合わせの恐怖…
結局、敵の潜水艦と遭遇することはなかったが、その時に目にした博多湾の景色は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いているという。

畑正憲さん:
波がぱーっと静かでね、そこに島があるんですよ。その島が、白い砂で縁取られていて、松が生えてて。あれは目にしみましたね。それは、なんと日本は美しい国だろうと思いましたね。感激で一杯でしたね

満州・大分開拓団の悲劇「同級生は1人も…」

しかし、さらなる戦争の悲惨さを、畑さんは満州で終戦を迎えた父親たちから聞くことになる。
ソ連の侵攻だ。それは突然だった。

畑正憲さん:
夜は寝られなかったって、「先生!先生!どんどんどんどん!」って(扉を)叩くんです。みんな乱暴されてるんです。だからその避妊のために、1日に3人も4人も処置しなくてはいけなかったと言っていました。
ソ連軍も、正規の軍隊ではなかった。入って来たのは囚人部隊だった。囚人を釈放して、鉄砲を持たせて満州に送りこんだんです。僕は、本当に情けなくて、この野郎って思いますよ、話を聞くたびに

畑さんは、暫く無言だった。
その後、固く閉ざしていた口からようやく絞り出した言葉は…

畑正憲さん:
50年後、(満州に住んでいた頃の)学校に行ったんですよ、小学校の時の。そうしたらね、学校が全然跡形もなかった。それで、壊れたレンガが山になってた。そのときの同級生が、戦後ひとりぐらい帰って来てるんじゃないかと思って、一生懸命、帰ってくる人ごとに「誰か消息を知りませんか」って聞くんですけど、(首を横に振って)だめだった…

ソ連に近かった大分開拓団の集落。畑さんの家族は、敗戦前にソ連から離れた吉林省に移動していたため難を逃れたそうだ。
しかし…

畑正憲さん:
開拓団の人には、突然、ソ連軍が襲って来たんですって。それでね、みんなで逃げたんですって。そうしたら野原でしょう。とにかく歩き疲れて、穴を掘って、そこに子どもや年寄りや病人を入れて銃殺したんです。だから僕の友達なんかも銃殺されたんじゃないかなと思うと、情けなくてね…。本当に辛いですよ、友達が1人もいないんですもん、その頃のね

人にも動物にも優しい笑顔で接する畑さんが、胸の奥にしまい込んできた「暗い記憶」。
自らの体験を振り返りながら、今を生きる私たちに静かに訴えかける。

畑正憲さん:
今、ああいう経験をする人はいないでしょ、あの地獄のようなね。
戦争というのは、人間の倫理観や感情、そういうものを全部押し潰す。ぶった切って、あんな無残なものはないですね。
人類がやっていけないのは、一番やってはいけないのは戦争。戦争だけは、どんなことがあっても阻止しないと

そう語った畑さんは、遠くを見つめた。そこに、まるで友達がいるかのように…

(テレビ西日本)

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