日本を脱出した野茂はしかし、たちまちメジャーで旋風を巻き起こし、日本メディアは手のひらを返すように野茂を絶賛した。
野茂はいきなりナショナル・リーグの新人王と最多奪三振のタイトルを獲得、オールスターゲームの先発投手も務めた。
独特の「トルネード投法」はアメリカの野球ファンなら誰もが知るところとなった。
1994年8月から計252日間にわたるストライキでファンを失望させていたMLBにおいて、野茂の存在は新たな「希望の星」となった。
日本人そのもののイメージを変えた野茂
世紀末の日本社会が混乱し、日本人が誇りと自信を失っていたなかで、野茂は日本人に新たな誇りと自信をもたらした。
アメリカで「分厚いメガネをかけた背の低いアジア人」という、あまり好意的とは言えないイメージで見られていた日本人が、スポーツマンとして世界に通用することを示したのだ。
当時ニュージャージー州の小学校に通っていた僕の妻は、野球に全く興味がなかったにもかかわらず、野茂の活躍によって「アメリカ人の日本人を見る目が変わった」ような気がして嬉しかったと言う。
幼少期の約10年間をアメリカですごした彼女によると、日本人はそれまで「ナーディ(nerdy)」な性格、言うなれば「勉強はできるが社交性がなくスポーツも苦手」というイメージで見られている感もあったが、野茂はそんなイメージを一蹴した。

野茂の活躍は、アメリカで暮らす日本人小学生にまで影響を与えたのだ。
1965年に村上がサンフランシスコでプレーしたのを最後に、一度は閉じかけた日本人メジャーリーガーの扉を野茂がこじ開けた後、まずは野茂と同じ投手たちが8人、20世紀のうちに続々と海を渡った。
すでにアメリカにいたマック鈴木を含めて長谷川滋利、柏田貴史、伊良部秀輝、吉井理人、木田優夫、大家友和、佐々木主浩……そして2001年にイチローと新庄剛志が初の日本人野手としてメジャーに移籍すると、その後は投打に関係なく日本球界のスター選手たちがアメリカの地を踏み、2023年までに計66人の日本人メジャーリーガーが誕生している。
2024年も山本由伸や今永昇太、松井裕樹らが新たにメジャーリーガーとなった。
日本の没落に代わるスポーツ選手の活躍
野茂のメジャーデビューから今日までの約30年は、日本人メジャーリーガーの歴史において「幕開けの時代」だったが、日本社会にとっては「没落」の30年だった。
超高齢社会と少子化の進行とともに日本経済は停滞し、国際社会における日本のプレゼンスは低下した。「失われた10年」は「失われた20年」になり、やがて「失われた30年」になった。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代はとうに終わったが、日本のビジネスマンの代わりに日本のスポーツ選手が海外で活躍するようになった。

野球だけでなくサッカーやテニス、ゴルフなど他の競技でも国際的に活躍する日本人アスリートは一気に増えた。
近年だと錦織圭や大坂なおみ(テニス)、松山英樹(ゴルフ)、八村塁と渡邊雄太(バスケット)といった若いアスリートたちがアメリカで堂々たる活躍を見せている。
欧州サッカーリーグの第一線でプレーする日本人選手も激増した。
選手という「資産」が売買の対象に
こうした背景には、単純に優れた日本人アスリートが増えたこともあるが、スポーツのビジネス化とグローバル化が進んだ影響も大きい。
今日のプロスポーツビジネスは、選手という「資産」が国境を越えて移動し、プロスポーツリーグやチーム、あるいはスポンサー企業などのRОI(投資対効果)を最大化させるマネーゲームにほかならない。
日本にも優良な「資産」がたくさん眠っていると、アメリカやヨーロッパのスポーツチームは気づいたのだ。

日本のアスリートたちはよくも悪くも金融商品と同様に売買の対象になり、欧米のスポーツビジネスに取り込まれていった。
「日本の若者は内向きになった」と言われて久しいが、少なくともスポーツ選手は明らかに「外向き」志向が加速している。
トップアスリートが「世界を相手に勝負したい」あるいは「もっと稼げる場所でプレーしたい」と思うのは自然なことだ。
内野宗治
1986年東京都出身。国際基督教大学教養学部を卒業後、コンサルティング会社勤務を経て、フリーランスライターとして活動。『日刊SPA!』『月刊スラッガー』『MLB.JP(メジャーリーグ公式サイト日本語版)』など各種媒体に、MLBの取材記事などを寄稿。その後、『スポーティングニュース』日本語版の副編集長、時事通信社マレーシア支局の経済記者などを経て、現在はニールセン・スポーツ・ジャパン株式会社にてスポーツ・スポンサーシップの調査や効果測定に携わる。