現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。

実に70年もの間プロ野球を内外から見続け、そして戦い続けてきた“球界の生き字引”の眼力は92歳になっても衰えず、今もなお球界を唯一無二の野球観で批評し続けている。

“球界の最長老”の野球人生と、レジェンドたちの証言から広岡達朗という男の正体に迫った、ノンフィクション作家・松永多佳倫氏の著書『92歳、広岡達朗の正体』から、当時弱小球団だったヤクルトスワローズを率いて、常勝・長嶋巨人軍を破り、優勝を勝ち取った内幕を一部抜粋・再編集して紹介する。

一年中アルコール漬けだった選手たち

76年シーズン序盤の5月半ば、荒川監督の休養により広岡はヘッドコーチから代理監督、6月には正式に監督昇格が決まった。

優勝するには信頼できる片腕が必要だと考え、ヘッドコーチ兼バッテリーコーチに巨人時代の同僚だったV9正捕手・森祇晶を招聘した。

広岡は決意する。

「監督になったからには頂点を目指す」

目標が人生を支配する。そう信じて生きてきた以上、勝負事において頂点を目指すのは至極当たり前だ。そのために、広岡はオフに大改革を実行する。

数々の名試合が行われた明治神宮野球場
数々の名試合が行われた明治神宮野球場
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政治の世界でも企業でも、改革への第一歩といえば大粛清が基本である。しかし、ヤクルトの松園尚巳オーナーのモットーは“家族主義”。トレードを嫌ったため、ヤクルトでの大胆な血の入れ替えは不可能に近かった。

となれば、既存の戦力を底上げするしか手はない。

手始めに秋季キャンプではウエイトトレーニングを導入した。あまりにシーズン中の怪我や故障が多かったからだ。

事実、ヤクルトの選手は一年中アルコール漬けの生活をしていた。勝ってはお祝いだと酒を飲み、負ければストレス発散でヤケ酒をあおる。タバコはベンチ裏だろうとどこでも好きなときに吹かす。

シーズンも夏を過ぎれば、ロッカールームではシーズンオフの余暇のスケジュールを立てるのに大忙し。「どうせ俺たちには優勝なんて無縁だ」という自堕落な意識が蔓延していた。

年が明けての春のキャンプからは三禁(麻雀、花札、ゴルフ)に加え、休養日の前日以外は原則として酒も禁止にした。その他にも、炭酸飲料の禁止、ユニフォーム姿での喫煙禁止、練習中の私語禁止と事細かく禁止事項を増やし、選手を徹底的に管理した。

当然、選手からの恨みは相当なものだった。

まるで明日なき戦いの高校野球のように

「野球はピッチャーが勝負の7割を左右するから、まず先発ローテーションを確立することが先決だった。

松岡弘、安田猛、浅野啓司の三本柱に、ジャンボ(鈴木康二朗)と会田照夫の2人を入れた。みんな元気良かったよ。交代時に安田なんか『やってられるかい!』とライトに駆け出して帰ってしまうし、会田はボールを渡さずにバックネットにぶつける。『こいつら、やりやがったな』とカッカしたけど、そうした行動は『自分を信用して欲しい』という裏返しの意思表示でもあり、いわゆる成長の過程に過ぎない。

とにかく先発陣には『5回まではどんなことがあっても代えない。どうしたらいいかコーチに聞くか自分で考えろ』と伝えた。そう言えば、各々がいろいろと勉強するようになる。ストッパーには井原慎一郎。こいつはへそ曲がりで、自分の部屋で座禅を組んでいたな」

とにかく、広岡は選手に“自助努力”させることを徹底させた。まるで明日なき戦いの高校野球のようにガムシャラでプレーさせるため、遠征先では真昼間から宿舎の屋上に選手、コーチを呼び出した。

「勝つためにやる。やらないと勝てんぞ!」

そう威勢良く発破をかけ、宿舎の屋上で野手には素振り、投手にはシャドウピッチングをやらせ、一汗かいてからユニフォームに着替えさせて球場に向かうこともあった。

あまりに猛練習を強いるため、コーチ陣が「こんなことをしていたら怪我します」と抗議すると、広岡は平然とした顔で「怪我人が出て最下位なら納得する。元気いっぱいで最下位はたまらんよ」と返した。

負け犬根性を取っ払うために

そして、勝負の3年目の78年。打撃陣、投手陣ともにシーズンを戦えるだけの準備は整った。あとは、心に蔓延る負け犬根性を完全に取っ払うこと。

つまりは、長年の巨人コンプレックスを払拭しなくてはならない。そのためには巨人より上の環境に身を置くべく、メジャーの球団と同じ場所でキャンプに邁進するのがいいと考えた。

広岡は、松園オーナーに直談判しに行く。

「巨人コンプレックスを払拭しない限り、チャンピオンにはなれません。そのためにはメジャーと一緒にキャンプを張り、巨人より上の世界を肌で感じ、巨人より良い環境でやっているんだということを意識づけたいんです」
「わかった、広岡くん。ではブラジルへ行ってくれ」
「松園さん、ブラジルに何しに行くんですか?」
「ブラジルにはヤクルトの工場があるから、まずはそこで激励を受けてから好きなところへ行ってくれ」
「遊びで行くんじゃないですよ」
「じゃあ、君の言うとおりにして勝てなかったらどうするんだ」
「私の責任なので辞めます」
「よし、わかった!」

広岡の覚悟を知り、松園は鶴の一声でヤクルト球団初のアリゾナ州・ユマでの春季キャンプの実施を決めた。

グランドキャニオンがあるアリゾナ州
グランドキャニオンがあるアリゾナ州

初の海外キャンプで、選手たちは“格別”を味わった。

合同キャンプとして一緒にやるサンディエゴ・パドレスのメジャーリーガーがどういった練習をしているか、生で見ることに意義があった。そこで練習の合間にウエイトトレーニングを取り入れることがメジャーの主流だと知り、選手たちは大いに触発された。

「ヤクルトの松園オーナーには『縁あってうちに入った選手たちを一人前にして勝ってくれ』と言われた。当時ロッテの山崎(裕之)が俺のファンで、ヤクルトに行きたいとトレードを志願していた。あとは佐藤球団社長が判子を押すだけで成立だったのに、生え抜きを可愛がるオーナーが直前で白紙にしたんだから。それくらい、自分の球団に入った選手を出したくなかった。

優勝したときは『下手くそをここまで根気よく指導して選手権で勝ってくれて、僕は嬉しい』と抱きついて喜んでくれたよ。松園さんの『自前の選手を一人前にして勝たせてくれ』という言葉は、今のプロ野球界にも通じるよ」

暗に巨人のことを指しているのがすぐにわかった。広岡は、初めて務めた監督業で結果を残せたことももちろん嬉しかったが、負け犬根性が染みついた選手たちが意識を変えて成長してくれたことに大きな喜びを感じた。

「根気強く教えれば、人は必ず成長する」

広島で得た教訓を、監督として見事に実践できたからだ。

昭和の野球場には多くの人が集まった
昭和の野球場には多くの人が集まった

1978年、ヤクルトは球団創設以来初となるリーグ優勝、そして日本一を飾った。最弱と揶揄されまくっていた球団の監督を引き受けて、わずか2年半後の出来事だ。

日本シリーズで戦ったのは、当時、日本シリーズ三連覇中の阪急ブレーブス。日本プロ野球史における最強チーム論でも必ず名前が挙がるほど安定した力を持ち、長嶋一次政権の巨人が75、76年と2年連続で立ち向かっても歯が立たなかったチームを破っての日本一だから、余計に価値があった。

『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)
松永 多佳倫
松永 多佳倫

1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。著書に、『まかちょーけ 興南甲子園春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園-僕たちは文武両道で東大を目指す-』、映画化にもなった『沖縄を変えた男―栽弘義 高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園-僕たちは野球も学業も頂点を目指す-』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『日本で最も暑い夏 半世紀の時を超え、二松学舎悲願の甲子園へ』(竹書房)、)『永遠の一球-甲子園優勝投手のその後-』(河出書房新社)、『沖縄のおさんぽ』(KADOKAWA)、などがある。