夫婦別姓を認めないのは「憲法に違反する」と主張し、事実婚生活などを送る男女12人が3月、集団提訴することがわかった。そのうちの女性1人が、FNNの取材に応じた。

「姓を夫婦片方しか選べず苦しむ人が大勢いる」

2015年12月16日朝、アフリカのウガンダの首都カンパラ。海外出張中のホテルの一室で、上田めぐみさん(46)はパソコンを開き、日本国内のニュースサイトにアクセスした。はやる気持ちで更新ボタンをクリックする。電波状況が弱く、ページの表示が重い。

繰り返すこと数回、ページ上にニュース速報が流れた。「最高裁が原告の請求を棄却 選択的夫婦別姓訴訟」。何度か読み返し、落胆が押し寄せた。ただじっと「棄却」の2文字を見つめ続けることしかできなかった。これまでの自分までもが否定された気がした。

FNNの取材に応じた上田めぐみさん(46)
FNNの取材に応じた上田めぐみさん(46)
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北海道の帯広市で育った。中学生の時、実家のリビングのテレビでなんとなくテレビを眺めていた。学者らが選択的夫婦別姓について討論をしていた。当時、1990年代は夫婦の姓のあり方の議論が初めて本格化した時期だった。画面の向こうで、女性の専門家が夫婦別姓の必要性を訴える。思わずうなずいていた。「なんで女性ばかり姓を変える必要があるのだろう」。心の底に根付いたわずかな「違和感」。しかし、誰かに共有することはなかった。

転機は高校で受けた家庭科の授業。当時はまだ女子生徒のみ家庭科が必修だった。家庭科の女性教師が自身の経験を語ってくれた。結婚した時、姓を変えたくなかったこと。しかし、周囲の圧で改姓を余儀なくされたこと。そして、今もそれを後悔しているということ…。その時の表情が忘れられなくなった。そしてまた、自分の中にあった違和感は間違えていなかったのだと背中を押された気がした。

進路に迷っていた高校3年生の時、たまたま立命館大学のパンフレットを読み、事実婚の法的保護などジェンダーを専門にするゼミの存在を知った。この問題をもっと勉強したい。将来の進路が決まった瞬間だった。

大学では、家族法とジェンダーを学んだ。日本国内の問題を知るにつれ、視線は海外でのジェンダー問題にも。大学卒業後、イギリスの大学院で「ジェンダーと開発」の修士号を取り、フランスにも2年間語学留学をした。JICAの青年海外協力隊に志願し、南米ボリビアで2年間働いたのち、JICAやNGO、国際機関のジェンダーの専門家として、南米やアフリカで、念願だったジェンダーに関わる仕事に就いた。

そんな仕事に追われる日々の2011年3月、一時帰国中に住んだ都内のシェアハウスで夫と出会った。トントン拍子で関係を深め、約1年後に交際。13年2月、2人でシェアハウスを退去し、同居を始めることになった。当初は、結婚は考えていなかったが、一緒に過ごすうちに、「この人なら」と思えた。

直後の11月に、レストランで結婚式を開くことに決まった。結婚を意識した時になって初めて、夫に「私は姓は変えたくないよ」と告げた。夫は「だったら、自分が変えようか」とも提案してくれた。でも、自分がしたくないことを夫に強要させることに違和感があった。話し合った末、事実婚で夫婦別姓のまま生きていくことを決めた。家族や友人も背中を押してくれた。

順調に結婚生活が始まったが、事実婚ならではの苦労もあった。当時の勤務先からは結婚祝い金が内規のため受け取れず、夫が入った生命保険でも請求人になることができないと知った。互いに転職活動で無職だった時には、配偶者控除を受けることも出来なかった。子どもが生まれても、夫婦どちらかにしか親権が認められないことも不安だった。

そんな最中、選択的夫婦別姓を求める初めての集団訴訟が行われていた。自分たち夫婦に直接的に関わるため、裁判の行く末は常に気になっていた。「もしかしたら現状が変わるかも」。そんな期待があった。

しかし、15年12月、最高裁で出された結論は「棄却」だった。自分までもが否定された気がして、精神的なショックも受けた。半年あまり、耳鳴りやめまいが止まらなかった。どうしても腑に落ちなかった。そして第2次訴訟が始まった18年、弁護団の事務局をボランティアとして手伝い始めた。

裁判の傍聴を呼びかけるメルマガを配信したり、報告会を開催したり。そうした裁判支援に加え、地方自治体の議会に、選択的夫婦別姓の導入を求める意見書の可決を陳情する活動にも加わった。第2次訴訟も21年に「棄却」で終わってしまったが、そうした努力で地元の北海道・十勝地方では、19市町村のうち18市町村で意見書が可決されるまでになったという。

そして、第3次訴訟となる今回、夫婦で原告として参加することに決めた。「今回で最後にしたい」と意気込みつつ、こう語る。「『姓』は自分そのものを表現する大切なもの。そんな姓を夫婦片方しか選べず苦しむ人が大勢いる。夫婦別姓を選ぶのも同姓を選ぶのも、誰かを否定するものじゃないと知ってほしい」

“妻の姓”を選んで感じたこと

筆者も夫婦の姓について、我が事として考えたことがある。2022年に結婚した際、妻の姓を選んだからだ。

元々は旧姓の「田中」を名乗っていた。幼い頃から「結婚後に姓を変えるのは女性」だと疑わずに生きてきた。自分が改姓しようと思ったのは、婚姻届を目の前にした時だった。「夫の氏」「妻の氏」と、どちらかにチェックを入れる箇所を見て、ふと「私が姓を変えてもいいのでは」と思った。

友人や同僚と話す時、記者は下の名前の「紳顕」に由来するあだ名で呼ばれることが多かった。しかし、妻は苗字の「松岡」から来るあだ名で呼ばれることが、ほとんどのようだった。だから、これまでの姓を失った時に、より喪失感が大きいのは妻の方ではと思った。

妻も当初は戸惑いを見せたが、生まれ持った姓でこれからも生活できることに、ほっとしたような表情を浮かべた。双方の親も理解を示してくれた。

その後の改姓をともなう事務手続きは煩雑を極めた。運転免許証、銀行口座に始まり、生命保険やライフライン、印鑑届…。仕事の合間をぬって徐々に進めることは、大きな負担だった。自分で選んだことだったが、夫婦の片方だけが負担を強いられるのは、不公平ではとも思った。

そして、それ以上の違和感は、姓が二つある事に起因するものだった。当時の職場では、結婚後も「田中」を名乗っていた。しかし、区役所や病院では「松岡」と呼ばれる。職場とプライベートで、別人格の自分が2人いるように思わされ、どこか心がざわつくこともあった。

2023年9月に転職し、職場でも「松岡」を名乗ることにして、そうした違和感は減りつつある。だけど未だに周囲で「田中」と聞こえたら、つい身体が反応するし、長年付き合った「田中」の方がしっくり来る気もする。

姓のあり方は、夫婦によって異なると思う。でも、中には同姓を強いられ苦しんでいる人もいる。もし選択的夫婦別姓が認められた場合、そうした「違和感」に苦しむ人は格段に減るのではと感じている。
【取材・執筆:フジテレビ社会部 松岡紳顕】

松岡 紳顕
松岡 紳顕

フジテレビ報道局社会部記者
1991年生まれ、福岡県とカナダ育ち。慶應義塾大学法学部を卒業後、2015年に全国紙に入社。知能犯罪や反社会的勢力、宗教2世問題、農水省、宮内庁などを担当。2023年秋よりフジテレビ社会部で司法担当記者として、汚職関係を取材しています。趣味は冬山登山です。
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