シリーズ「被爆78年。サミット経て…伝える“あの日”」。初回は原爆で父と姉を亡くしたある胎内被爆者の方の証言活動を取材した。その活動は「もう自分のような家族を作ってはいけない」という強い思いに支えられていた。

家族が被爆死したことに触れなかった母

平和公園にある原爆供養塔。この場所で手を合わせるのは、広島市東区に住む胎内被爆者の二川一彦(ふたがわ かずひこ)さん、77歳。あの日、原爆で父と姉を亡くした。

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二川一彦さん:
いつも平和公園にくると、家族の代表の気持ちで手を合わせている

二川さんは広告業を営むかたわら、8年ほど前から月に1・2回語り部の活動に取り組んでいる。決して風化させてはならない、忘れてはならない家族の歴史。

「語り部」活動中の二川さん
「語り部」活動中の二川さん

二川さん:
うちの母親含め、親戚、そしてきょうだいが、父親と姉が原爆で死んだこと、原爆のことを全然話してくれなかったことが、逆にモチベーションになっている

父の一衛さんは、78年前のあの日、今の平和公園にあった旧材木町の郵便局長として働いていた。

父 一衛さん(当時47歳)
父 一衛さん(当時47歳)

二川さん:
まさにここ、材木町の郵便局があった。即死でしょう。原爆が爆発した上空600メートルの真下ですから

一番上の姉、幸子さんはそのとき、今の広島市中区国泰寺町で建物疎開、つまり空襲による火災の延焼を防ぐため建物を取り壊す作業をしていた。しかし、あの日、家に帰ってくることはなかった。

建物疎開作業中に被爆
建物疎開作業中に被爆

当時、二川さんを身ごもっていた母、広子さんは、爆心地から3.8キロ離れた現在の広島市東区矢賀で被爆。

翌日から夫の一衛さんと娘の幸子さんを探し続けた。

二川さん:
結局8月いっぱいまで、似島など色々なところを歩いて探し回ったが、ついに行方は分からなかった

「気がついたら被爆者なの?」

翌年1946年に誕生した二川さん。母、広子さんの胎内で被爆した“胎内被爆者”として生まれた。

二川さん:
“気がついたら被爆者なの?”って感じですよね

原爆の惨禍の記憶はないが、“胎内被爆者”というだけで、心無い差別の目を向けられることもあった。

二川さん:
1980年の平和記念式典で遺族代表として鐘を突くことになり、その会見で、ある新聞記者が「二川さんは、結婚しないで一人のようですが、やっぱり原爆の影響ですか?」と聞かれて「いやいや、そんなことはないですよ。たまたま一人なだけです」とこたえたことがあった

この出来事があってからむしろ、二川さんは家族が受けた被爆の事実を語っていかなければいけないと考えるようになったという。
しかし、父や姉の話は近所の人から聞いたものばかり。家族が被爆の事実について口を開くことは一度もなく、いつしかその思いは胸の奥にしまいこんでいた。

姉のブラウス見つけ家族の歴史を伝える決心

ところが9年前、2014年のある日…転機が訪れる。2000年に亡くなった母、広子さんが使っていたタンスの中から、姉、幸子さんが着ていたブラウスが見つかった。

二川さん:
白い和紙でくるんであった。几帳面にたたんであった

そのブラウスは今、原爆資料館で大切に保管されている。今回、取材班は特別に幸子さんのブラウスを見せてもらった。

二川さん:
元気でいるかなって感じ

平和資料館 収蔵庫
平和資料館 収蔵庫
姉、幸子さんのブラウス
姉、幸子さんのブラウス

二川さん:
(泣きながら)ありがとうございます

二川さん:
言葉が出ない。でもずっと一緒にいる感じがしました

原爆で最愛の夫と娘を亡くし、絶望の中、5人の子どもを懸命に育て上げた母。その母が大切に残していたブラウスを見て、二川さんは家族の歴史を伝えようと決心した。

原爆・戦争の悲惨さ理不尽さ伝える

二川さん:
自分の家族の話をすることによって、原子爆弾と戦争の惨さ・理不尽さ・悲惨さを感じてもらって、“それをどうしたらいいのか”考えてもらうきっかけになればと思う

7月中旬、いつものように原爆供養塔の前で手を合わせる二川さん。この日、近くのカフェで自身の経験を高校生に向けて話すことになっていた。

二川さん:
一応、心の準備はしている。自分の経験と自分の思っていることを話させてもらおうかなと思う

カフェに集まったのは授業の一環として大阪からやってきた、高校3年生。二川さんは手作りの資料を使って、家族の姿を伝える。

二川さん:
母が非常に穏やかで明るい顔をしている。父と姉が死んで、地獄のような日々なのに

家族の歴史をありのままに伝えた二川さん、すると高校生から鋭い質問があった。

男子高校生:
復興の一部始終を見てこられたと思うが、世の中に絶望する出来事はありましたか?

高校生との対話に力づけられる

悩みぬいた末、胸に抱いていた思いを明かす。

二川さん:
今の方が心配です。絶望に近いです。G7で“広島ビジョン”の発表があったけど、核兵器の廃絶については一言もないわけですよね。リーダーがそれでは僕たちは悲しい以上に怒りなんですよね

真剣なまなざしで二川さんの話に耳を傾けていた高校生たち。

女子高校生:
自分の状況と向き合って考えてきたことが分かって、これから自分がどう考えていくべきかに繋がりそうです

男子高校生:
今の日本の現状に絶望ともいえる感情を抱いていると仰っていたので、絶望をさせたままではいられない。これから僕らが日本を良くしていって、新たな希望になれるように頑張りたい

二川さん:
うれしい!

二川さん:
率直にすごくやりがいを感じた。若い人の意見を聞くことで、僕も気づく。そしてその裏付けを考えてみようと思うようになる。自分のスキルアップになる

もう自分の家族のように、核兵器で苦しむ人を作ってはならない。二川さんの願いだ。

二川さん:
戦争や核兵器など、いけないものは、いけないとずっと言い続けたい

まもなく被爆78年…家族が口に出せなかった無念の思いを背負い、二川さんはこれからも伝え続ける。

(テレビ新広島)

テレビ新広島
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