戊辰戦争の敗北によって、ほとんどお家取りつぶしとなった仙台藩の亘理伊達家。家臣を守るために、家の宝物も売り払って北海道の有珠郡開拓へと新天地を求めた。

荒むしろを敷いただけの床、食器もなくホタテの貝殻を皿代わりにした苦しい暮らしが続いていた。

そんなとき、廃藩置県によって藩が消滅してしまったのである。

激動の中に放り込まれた殿様たちについて解説した歴史研究家・河合敦氏の著書『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)。

今回は、改易状態から新天地での開拓に成功した名門仙台藩・亘理(わたり)伊達邦成(くにしげ)が明治の世でどのように翻弄(ほんろう)され、生き抜いたか一部抜粋・再編集して紹介する。(以下「 」内は河合敦氏)

開拓地に残るか、東京に帰るか。伊達邦成の苦渋の決断

藩はすべて県となり、中央から役人が派遣されて統治されることになった。藩主(知藩事)は東京居住を命じられ、藩士たちとの主従関係が断ち切られた。

これにともない分領支配も終了し、翌明治5年、亘理伊達氏が開拓している有珠郡と虻田郡でも邦成の支配権は奪われ、開拓使(明治2年に北海道開拓のために設置された政府の省庁)が統治することになってしまった。

仙台藩の藩祖・伊達政宗の公騎馬像
仙台藩の藩祖・伊達政宗の公騎馬像
この記事の画像(3枚)

「しかも、士族には新政府からそのまま禄が支給されたのに、なんと亘理伊達氏の家臣たちは平民に組み入れられ、家禄が与えられないことが判明した。

『自分たちがはるばる故国を離れ、酷寒の地でこのような労苦に耐えてきたのは、士族という地位が保てるからだった。プライドのために歯を食いしばってがんばってきた。こんなひどい扱いを受けることになるなら、故郷で帰農したほうがよかったではないか』と、このとき邦成は心底激怒し、開拓地を離れて東京へ行ってしまおうと考えたようだ。

しかし、彼は最終的に思いとどまった。そして開拓使の下級役人(八等出仕移住人取締)となり、取締という地位についてそのまま旧臣をたばねて開拓にあたることにしたのである。苦渋の決断だったろう」(河合敦氏)

“宝物”を処分して開拓費用をまかなう

幸い、亘理伊達移住団は3年間、開拓使から資金などの援助を受けられることになった。どうにか窮状をしのぐことができたが、邦成と家臣たちとの主従関係は消滅してしまった。

が、以降も変わらず厚い信頼関係を維持しつつ、協力して土地の開墾を進め、同時に地元に残る旧臣たちを移住させていった。こうして亘理伊達氏の家臣団の移住は、明治3年から9回にわたっておこなわれ、総勢2700名に達した。

「ただ、それからも開拓が順調に進んだわけではない。開拓使から受給する金銭だけでは到底開拓費用をまかなえず、邦成は私財から約3万両の金銭と7千俵の米を投入している。

義母の(伊達)保子(前仙台藩主の妹)も見かねて、自己の所有する宝物を不要品だからといって、邦成にその処分を願い出、邦成は感涙してその申し出を受け入れたという」

なぜ亘理伊達だけで開拓に成功したのか?

その後、邦成は北海道で指導されていたアメリカ式農業を取り入れ、新しい農法を学ぶ組織を立ち上げたり、牧場の開設などを行う。

明治9年には、すべての開拓民を社員とする「永年社」を組織、開拓使から支給される金穀の一部を積み立てることにしたのである。

『伊達市史』によれば、「この組織は後の産業組合とも考えられるもので、病気・災害など緊急のときの資金貸し出しから、共同物資の購入・出産物の移出販売・農社・牛社の経営、硫黄の採掘(ニセコにて)菜種油の搾油、製網、大・小豆、菜種の委託販売、米穀購入などとまことに広範な事業をおこなっていて、生産物の販売先もまた生活必需品の購入先も不自由であった当時において、開拓者達の物心両面に潤すところの多かった組織であった」と永年社の活動の詳細を解説したうえで、その効用の大きさを説いている。

なお保子は養蚕(ようさん)に力を入れるようになり、これにより家中の養蚕熱も高まっていった。さらに酷寒の北海道だったが、家臣たちが工夫を重ね、稲の栽培にも成功した。

また、明治5年には開拓使の認可を得て有珠郷学校を設置したが、さらにこの頃、紋鼈には病院や郵便局、波止場などもつくられ、町としての機能が整い始めた。

「いずれにせよ、士族という昔の身分にこだわった伊達邦成だったが、進取の気性に富み、新しい制度を受け入れることを一切ためらわなかった。こうした邦成や田村顕允らの奮闘によって、紋鼈(モンベツ)を中心とする有珠郡の開拓は見事に成功したのである」

ところでなぜ、邦成と家老・田村顕允(あきまさ)率いる亘理伊達家臣団だけが、開拓の成功をおさめたのだろうか。

『伊達市史』はその理由を、従来の主従関係も消滅した「混乱の時に、己の安穏のみを計ろうとする旧領主もある中で、亘理領主だった伊達邦成は、伝来の家宝までも売り払って旧家臣の救済に当て、彼等のため遂に有珠郡を安住の地に創り上げたのである」とする。

「まさに至言であろう。これに加え、家老だった田村顕允の導きと義母の保子の支援もたいへん大きかったと思う。しかしながら、その最大の理由は、誠実で責任感の強い主君・伊達邦成を、失敗という恥辱にまみれさせてはならない、というすべての家臣たちの思いがこの奇跡的な成功を生んだのではなかろうか」

明治25年、開拓事業の功績を高く評価され、邦成は男爵となった。それから12年を生き、明治37(1904)年11月29日に64歳の生涯を閉じた。

奇くしくも伊達保子(享年78)が逝った半月後のことであった。

『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)河合敦著
『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)河合敦著

河合敦
歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史~新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史』『殿様は「明治」をどう生き抜いたのか』シリーズ(ともに扶桑社)などがある

河合敦
河合敦

歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史~新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史』『殿様は「明治」をどう生き抜いたのか』シリーズ(ともに扶桑社)などがある