乾いた大地、泥でできた家屋、たびたび起こる天災。これらがアフガニスタンのすべてだった。
日本人医師・中村哲は、対テロ戦争の最中でも、アフガニスタンで医療活動を続けていた。
「この国ではどうして毎日患者が増えるのだろう。問題はどこにあるのだろう」
中村がたどり着いた答えは、“水”だった。
アフガニスタンに新たに川筋を作り、現地では親しみを込めて、「カカ・ムラド」=中村のおじさんと呼ばれた中村哲医師。
2019年12月に武装勢力に銃撃されこの世を去ってから約1年半が過ぎた今、彼の源流をたどる。
後編では多くの命を救った井戸掘りが禁止されたことで始めた“緑の大地計画”と、中村を形作った源流に迫った。
(【前編】『医師でありながら井戸を掘り、靴を作る。アフガニスタンを救った中村哲のルーツとなるもの』)
”井戸掘り禁止”と大胆な方針転換
1991年、中村は医師として派遣されていたパキスタンから、隣国アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を作り、多くの人の命を救っていた。
この記事の画像(26枚)そして医療活動だけではなく、アフガニスタンに1600本もの井戸を掘り、戦災と干ばつに襲われた国を、なんとか救おうとしていた。
2002年、アフガニスタンは難民であふれ、1万人〜2万人の難民キャンプも存在していた。干ばつはいっそう激しさを増し、これまで掘った井戸の水位が下がり、再掘削に追われた。
しかし地下水の枯渇を恐れたアフガニスタン政府が、井戸掘りの禁止を命じたのだ。
中村は、大胆な方針転換を余儀なくされ、2003年に発表したのが、”緑の大地計画”。用水路の建設である。
アフガニスタン東部を流れるクナール川。
ヒンズークッシュ山脈の雪解け水が豊富に流れる大河から水を吹き込み、全長13キロの用水路を築き、毎秒6トンの水を送り込み、乾いた大地を潤す計画である。
2002年に現地入りし、初期の用水路建設に携わった元ワーカー川口拓真は、誰も経験のない当時は、苦労の連続だったと振り返る。
「最初は本当に手掘りで、スコップと人手で掘っていた。何十年かかるのだろうと思っていた。1日1ドルか2ドルくらいの日雇いのお金を渡す。彼らにとっては貴重な現金収入。最初100~200人だったのが400~500人に増えていった」
中村も帰国するたびに福岡市の書店を訪れ、土木に関する本を買い漁り、独学で勉強を重ねた。
30年以上にわたり中村の右腕として医療活動に携わってきた看護師・藤田千代子も、医療活動の傍ら、重機の調達など建設工事の手伝いを頼まれた。
一致して協力し復興の範を示すことが我々の使命である。これは、我々の武器なき戦である“
(中村哲著『医者、用水路を拓く』より)
川の流れが強く、足をすくわれたらながされてしまう状況でも、自ら水の中に入り、細かな指示を出した中村。
川口は、「先生の、水路を作りたい気持ちが、そういうところに出ている」と語る。
困難を極める水路の建築を救ったもの
流れがはやく、大量の土砂も混じるこの川からどう水を引き込めば良いのか。
築いた堰は何度も濁流にのまれた。
中村は夕食のミーティングで、「急がないといけない。この時期まで水路を通さないと、飢え死にする患者が増えます」などと、厳しい内容を穏やかに伝えた。
夏場は、雪解け水によって川の水量が上がり、できない工事が出てくる。特に取水口など、1年に1回しかできない工事もあった。
福岡県朝倉市を流れる1級河川・筑後川の中流にある『山田堰』は、江戸時代に築かれた取水堰だ。
この堰こそ、中村がたどり着いたひとつの答えだった。
堰の管理をしていた徳永哲也(山田堰土地改良区前理事長)は、堰を通じて中村と親交を深めたという。
中村は徳永に、「なぜこんなにすごい取水堰を誰も知らないのか。先人の知恵を多くの人に知って参考にしてもらう」と話し、顔を合わせるたび、「100年耐えられる用水路を作りたい」と語っていた。
山田堰は、川の流れに対して石を斜めに敷き詰めることで水を緩やかに取水口へと運ぶ。また、土砂がたまらないよう土砂掃きが設けられていて、3本に分かれた川の流れが互いに勢いを打ち消すことで、下流の流れを穏やかにするものだ。
川の反乱に何度も悩まされた先人たちの知恵の結晶だった。
ヨーロッパのNGOも水路やコンクリート構造物を作っていた。しかし先進国の技術で作っても、現地の人はアフターメンテナンスができない。
アフガニスタンは石の文化ということもあり、中村は針金で編んだ籠に石を詰めて形作る“蛇籠工”を用いることで、壊れたとしても現地で修復できる工法に徹底してこだわった。
工事開始から1年、用水路建設のひとつの節目を迎え、試験通水が行われた。
中村は、用水路に流れてくる水の一番先頭を歩いていた。
共に汗を流す精神とそのルーツ
医師でありながら率先して重機を操り、現地の人と共に汗を流した中村。
その精神は、アフガニスタンの宿舎にも写真が置かれていた祖父から受け継がれてきたものだ。
中村の祖父・玉井金五郎。その人生は何度も映画化され、鶴田浩二や石原裕次郎、高倉健、渡哲也など、時の大スターたちがこぞって演じた。
金五郎の孫で、中村のいとこにあたる玉井史太郎は、中村の”精神”のルーツについて、こう語る。
「玉井組・金五郎の流れを一番よく体現しているのが哲君。弱気を助け強きをくじく。素朴な正義感が金五郎から哲くんに受け継がれている」
明治時代の若松港は、筑豊炭田が集まる遠賀河の下流で、日本最大の石炭積み出し港として栄えていた。
石炭の積み出しを行った人々は“ごんぞう”と呼ばれ、天秤棒一本で100キロ近い石炭を運び、それは高度な技術と忍耐力を要した。
そんな”ごんぞう”たちを裸一貫で束ね、玉井組の頭となったのが金五郎である。
金五郎は、「三井や三菱とか大きな資本と戦わないと小頭の生活は守れない。小頭の生活が守れないとごんぞうの生活を守れない」として、賃金引き下げを求める荷主たちに反発。
時には、荷主に肩入れする組のものから命を狙われることもあったという。
金五郎の波乱の人生を世に知らしめたのが、作家・火野葦平の代表作『花と龍』。金五郎の長男だった葦平は、作家になる前、自身も若親分として労働運動の先頭に立った。
”ごんぞう”たちの賃金を丹念に調べ、その資料を元に若松港始まって以来のストライキを実行し、賃金の引き上げに成功した。『花と龍』の中でも、玉井組の大黒柱として描かれていたのが、金五郎の妻・マンの存在だった。
組で働いていた労働者の半分は、朝鮮半島にルーツを持つ人たち
。しかし、マンは「外国人といっても絶対に差別をしてはいけない」と教えた。
労働運動の際に配られたハングルのビラからは、玉井組が労働をともにする一人の人間として、在日朝鮮人を対等に扱っていたことがうかがえる。
祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている
弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賎がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのこと
(中村哲著『天、共にあり』より)
そう本にも書いた中村。
金五郎とマンの血は受け継がれ、自ら率先して働き、多くのアフガニスタンの命を救うこととなった。
約65万人の自給自足が可能に
建設開始から7年たった2008年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロまで伸び、完成した。
マルワリード堰を始め、中村がこれまで手がけた堰は9つに及ぶ。
両岸には柳を植え、根を張り巡らせることで水路をより強固なものにして、水路が壊れれば住人たちは自力で修理を重ねていた。
用水路周辺には、2万本を超えるオレンジの木が植えられ、蜂蜜作りも始まり、酪農も再開。ミルクやチーズの生産を行っている。
中村はクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクとマドラッサ(学校)を建設。
多くの子供たちに学ぶ機会を与えた。
水路周辺役1万6千ヘクタールが緑化され、約65万人の自給自足が可能になった。
平和とは観念ではなく、実態である
(中村哲著『天、共にあり』より)
アフガニスタンに小さな平和が訪れていた2019年12月、中村は移動中に銃撃を受け、死去した。
アフガニスタンのガニ大統領は、追悼式典で自ら棺を担ぎ、「彼は愛情深い人で、人生を全人類とアフガンに捧げました」と哀悼の意を捧げた。
中村の尽力で住民たちの生活は、大きく変わった。
「きれいな水が来るようになって、農場で牛に水を与えられるようになった」
「昔この土地で育つ穀物は少なく、アヘンの栽培に頼っていた。アヘン栽培のようなイスラム教の教えに反する行為が必要なくなった」
息子を”ナカムラ”と命名した人までいる。
「私は神様と約束しました。次に生まれる子どもの名前は、偉大なるナカムラにすることです」
中村は、自身が成し遂げた偉業について「私の個人的な仕事ではない。神の後押しが働いている」と笑みを浮かべていた。
受け継がれる志
中村の長女・中村秋子さんは父の死後、ペシャワール会に顔を出すようになった。
「これからもこの事業が続いていくことが何よりだと思うし、父も自分自身は忘れられても、あの事業が続いていくことは大切だと思っているのではないか」
緑の大地計画は継続している。ペシャワール会は2020年、クナール川に新たな堰を築くため、調査を開始した。
アフガニスタンでは、中村の功績をたたえた絵本「カカ・ムラド」が出版された。その物語は、こう締めくくられる。
「カカ・ムラドはどこ?」多くの人が中村先生の夢を見ました。
あなたがカカ・ムラドのようになってくれると信じているわ
(『カカ・ムラド』より)
(【前編】『医師でありながら井戸を掘り、靴を作る。アフガニスタンを救った中村哲のルーツとなるもの』)
(第29回FNSドキュメンタリー大賞『カカ・ムラド~中村哲の信念~』)