乾いた大地、泥でできた家屋、たびたび起こる天災。これらがアフガニスタンのすべてだった。

日本人医師・中村哲は、対テロ戦争の最中でも、アフガニスタンで医療活動を続けていた。

「この国ではどうして毎日患者が増えるのだろう。問題はどこにあるのだろう」

中村がたどり着いた答えは、“水”だった。

アフガニスタンに新たに川筋を作り、現地では親しみを込めて、「カカ・ムラド」=中村のおじさんと呼ばれた中村哲医師。

2019年12月に武装勢力に銃撃されこの世を去ってから約1年半が過ぎた今、彼の源流をたどる。

前編では、昆虫好きの少年がアフガニスタンで多くの命を救うに至った経緯と、医療活動だけでない“命を救う方法”を追った。

(【後編】『アフガニスタンで65万人を救った中村哲。医師でありながら用水路を作った理由とその源流』

昆虫に夢中だった少年時代

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後に多くのアフガニスタンの人々をを救うことになる医師・中村哲。

福岡県古賀市で過ごした少年時代は、昆虫の虜になっていたという。

同級生の兄は、中村が家に来ると、必ず「のぶちゃん蝶々交換しよう」と弟の伸行さんに言っていたと振り返る。

「てっちゃんはこの辺りで捕れる蝶はほとんど持っていた。のめり込むなんてもんじゃない。親父に質問するときはかぶりつくように聞く。親父も『下調べしていかないとてっちゃんの質問には答えられない』と」

中村自身も、後に著書でこう記している。

ヒンズークッシュ山脈(アフガニスタン)は、氷河時代の遺物といわれる昆虫たち
特にアゲハチョウ科のパルナシウスが生息することで有名である

私は10歳の頃、昆虫の虜になって現在に至るが、ヒンズークッシュは一度は訪れたい場所のひとつであった
(中村哲著『天、共にあり』より)   

西南学院中学校に入学すると、中村の将来を決める“キリスト教”との大きな出会いが待っていた。

洗礼を受け、クリスチャンとなった中村が長年通い続けた教会の藤井健児名誉牧師は、不慮の事故で若くして視力を失った。

絶望の中、キリストの言葉に救われたことで牧師の道を志し、牧師となって初めての信徒が中村だった。

当時の中村は「直接世のため人のために役立つ仕事をしたい」と藤井牧師に話し、医学部への進学に意欲を見せていた。

キリスト教のインパクトは相当大きく、私もまた自分の将来を「日本のために捧げる」といういくぶん古風な使命感が同居するようになった。

とはいえ、ここで自分の願いどおり昆虫学に進んでおれば、ペシャワール赴任も、アフガニスタンでの活動もなかったに違いない
(中村哲著『天、共にあり』より) 

藤井牧師は、中村の信仰についてこう振り返った。

「キリストが愛を実践した人である。最後は罪もないのに十字架にかかって…。そうした中で彼(中村さん)は本当の愛を、それは民族、宗教、国境を超えて愛には大きな力があると。形にとらわれない”信仰の本質“を見つけた。

苦しみや困ったことから逃れたい”信仰“とは全然違う。”牧師と信徒“ではなく、”一人の人間としての交わり“をした中で感じたのではないだろうか」

らい病予防のため始まるサンダル作り

ロサンゼルス五輪が開催された1984年。

医師・中村の海外での活動は、この年に始まった。

国際医療NGOの医師としてパキスタン・ペシャワールへ派遣された中村が、最初に向き合ったのが、当時パキスタンで蔓延していたハンセン病。パキスタン国内の患者の数は、2万人を超えていた。

ハンセン病は、手足の皮膚や末梢神経が侵される感染症だ。

裸足で過ごすことが多い現地の人にとって、ハンセン病によって足の裏の感覚が麻痺すると、小さな傷でも重傷化し、最悪の場合は足を切断しなければならなかった。

「突然らい菌が体の中で反応を起こして、突然”垂手“や”垂足“になる。らい菌が一カ所に固まると“熱こぶ”になり、痛みと熱を伴う。倒れ込むように病院に来る患者がいました」

そう語るのは、30年以上にわたり中村の右腕として医療活動に携わってきた看護師の藤田千代子だ。

地元福岡で中村と出会った藤田は、その人柄に魅了され、中村とともにパキスタンに渡り、ハンセン病の恐ろしさを目の当たりにした。

ハンセン病の治療とともに、足の切断などの予防措置として中村が始めたのが、足を保護するためのサンダル作りだった。病院の中に工房を作り現地の靴職人を雇って、大量のサンダルを無償で提供した。

患者の足に負担がかからないよう、中敷きに特殊なスポンジを使い、ハンセン病への差別に配慮し、見た目で医療用と分からないよう現地で流行りのデザインを採用。

結果、足の切断手術は激減した。

さらにサンダル工房で働いていた靴職人の助手たちは、ハンセン病により職をなくした小作人だった。働けなくなり地主に追い出されそうになった彼らに、靴職人の助手としての仕事を作り出したのだ。

中村は「そこまで掘り下げるのが、医者の仕事ではないか」と話していたという。

隣国アフガニスタンでの医療活動へ

1991年、中村の活動はパキスタンの隣国アフガニスタンに広がる。

ソ連の侵攻や内戦、戦乱が続くアフガニスタンには、当時医師も診療所もなかった。

看護師の藤田は、アフガニスタンでの医療活動と比べると、パキスタンですら恵まれていると感じたと話す。

パキスタンの職員たちもアフガニスタンの状況を知ると同情し、中村に「先生、アフガニスタンに力を入れないといけない」と協力する姿勢を見せたという。

アフガニスタンの険しい山岳地帯ダラエヌール地区に初の診療所を開設した時、村の長老たちの「日本万歳」という声が鳴り響いた。

近隣の村からも、毎日200人以上の患者が押し寄せた。

2001年、アメリカは、テロの首謀者が潜伏するとしてアフガニスタンに攻撃をしかけた。

対テロ戦争だ。

イスラム過激派組織タリバンは必死の抵抗を見せ、戦況は泥沼化。中村はそんなアフガニスタンでも医療活動を続けていた。

テロの直後一時帰国した中村は、地元・福岡のテレビ西日本の番組で静かに訴えた。

「はじめは単純な驚きだとか、『これからどうなるんだろうか』という不安があったが、アフガニスタン避難がヒステリックな様相を帯びてくるにつれて、静かな怒りに変わっていった。

あまり知られていないが、これこそ恐ろしいことで、1年前のWHOの発表では数百年に一度あるかないかの大干ばつに見舞われていて、1200万人が被災、400万人が飢餓線上、100万人が死ぬだろうと。

生きるのが精一杯で、とても戦う状態ではない。こんなときに『どうして自分たちが標的なのか』という静かな怒り」

戦災と、命を救うための水の確保

戦争と時を同じくしてアフガニスタンを襲っていたのは、未曾有の大干ばつだった。

作物が育たない故郷を捨て、難民となる人が続出。さらに食糧難と水不足は体力のないものたちの命をも奪う。

看護師の藤田は、当時の状況をこう振り返る。

「子供は我慢できなくて水を見ると飲んでしまう。それによる下痢、吐き気、干ばつで作物がとれてないので栄養失調。栄養失調があって、泥水を飲んだら子供はすぐに死んでしまう。

空爆があっても干ばつは続いている。必要なことを始めないといけない。そこに水を求めている人がいるから。お金もない中で井戸を掘ることになった。『どうなるんだろう』と思っていました」

苦しむアフガニスタンの人々を救うため、中村がたどり着いた答えは、水の確保だった。医師でありながら削岩機を使い、自らも井戸の中に降りて水が出るまで掘り続けた。

さらに中村は日本全国を飛び回り、“いのちの基金”を呼びかける。

「99.99%の人々は数十円のお金が無くて、薬を買えずに死んでいく人が数知れないという世界。いかに少ない予算で、いかに多くの人々に恩恵を及ぼすか、特別な配慮をせざるを得ない世界である」
 
中村は、講演会で切実に訴え続けた。

中村を支える福岡のNGOペシャワール会に集まった寄付金は、わずか半年で約8億円にものぼった。その資金を元に、中村は2年間で1600本もの井戸を掘り、15万人の難民に小麦粉と油を配給した。

しかし多くの命を救ったこの井戸掘りは、ある理由によって政府により止められてしまう。

後編ではその解決策として医師・中村が始めた“緑の大地計画”と、人々を救う中村の源流を追う。

(【後編】『アフガニスタンで65万人を救った中村哲。医師でありながら用水路を作った理由とその源流』

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『カカ・ムラド~中村哲の信念~』)