当時は、人里から離れた山中に「避病院」と呼ばれる隔離病棟が設置され、そこに患者を収容した。粗末な掘立て小屋で治療設備はなく、医師や看護婦もいない。治療よりも隔離が目的で、患者はそこに放置されたまま、糞尿にまみれて食事も満足に与えられず、悶え苦しみ衰弱して死ぬ。だから、避病院ではなく“死病院”だと人々は言って恐れる。避病院送りを避けるため感染者を匿うことも多く、感染を拡大させる大きな要因になっていた。
和が変えた“死病院”のイメージ
避病院の環境を改善し、適切な治療をおこなって生存率を高めることは、伝染病の流行を防ぐ最も有効な手段になる。そう考えた和は馬車に消毒用具や清潔な衣類、米や味噌などを満載して、志願した看護婦数名とともに赤痢患者が発生した集落に向かった。
避病院の中を隅々まで消毒し、病室の換気と排泄物の処理、患者の身体と衣類を清潔に保つことを徹底させる。また、簡素な炊事場を設置して滋養のある食事を提供した。それで患者の死亡率は激減したという。
ナイチンゲールもクリミア戦争の野戦病院で同様の措置を実行している。その結果、伝染病の蔓延で、一説には43%という高い数値を示していた入院患者の死亡率が、2%にまで下がる劇的な効果が確認された。和の避病院改革も同様の効果があったと推測される。その証拠に、当初は避病院への収容に激しく抵抗した村人たちが、やがて自ら名乗り出て避病院への隔離を望むようになったという。状況が好転して“死病院”のイメージが払拭されていなければ、こうはならなかっただろう。
明治27年(1894)4月には知命堂病院内に附属産婆看護養成所が設立され、和は看護長と講師を兼任することになる。同養成所ではトレインド・ナースにくわえて、伝染病対策に特化した人材を短期間で育成する「速成看護婦」のコースも設置された。
この頃、朝鮮半島をめぐって日本と清(中国)の対立が激化し、戦争の機運が高まっていた。戦争は伝染病を蔓延させる。戊辰戦争や西南戦争の時も戦地で感染した兵士が故郷に帰還し、日本各地で伝染病が発生した前例もある。それに対処するため、伝染病患者の看護にあたる人材を早めに揃えておく必要があった。
速成看護婦一期生の育成完了から間もなく、梅雨入りとともに全国各地で赤痢が発生した。7月には新潟県下でも流行が始まる。同県の赤痢患者数は前年の2倍以上の2962名にもなり、その後も毎年患者数の最多記録を更新していった。明治32年(1899)の患者数は1万3354人に達している。
和が育てた看護婦たちはこの緊急事態に対応して、防疫活動や患者の看護で目覚ましい活躍をしたことが伝えられる。県内の町村からも多くの感謝状が贈られた。

