ミャンマーのビルマで父を亡くし、自身も佐賀空襲を体験した佐賀市高木瀬の86歳の男性。
戦死の知らせを受け、泣き崩れた母の姿が今も脳裏に焼き付いています。
【牛島英典さん】
「父と面会に行ったということは覚えておりますけれども、何をどうしたかというのは一切覚えていない。まだ4つですからね。覚えておるわけない」
7月、佐賀市高木瀬の公民館で開かれた市民講座。地区の住民など約50人が戦争体験に耳を傾けました。
牛島英典さん86歳。
おととしから県遺族会の語り部として各地で活動しています。
【牛島英典さん】
「遺児の平均が85歳です。
私も87歳、今年になります。
家族の方たちにも、戦争というのはこういうものだということに教えていただいて、二度と日本が戦争に巻き込まれないようにしていただきたいと思います」
牛島さんは佐賀市高木瀬で生まれ育ちました。1945年8月5日、牛島さんが5歳の時、夜中に空襲警報が鳴り響きました。
【牛島英典さん】
「近くの田んぼの方に逃げていったわけです。
布団を誰か持ってきてあったわけです。
そしてその布団に潜り込んで、私と弟と潜り込んで」
1945年の佐賀空襲。
約30機の爆撃機が焼夷弾を投下しました。
佐賀市南部を中心に死者は約60人にのぼるとされていて、牛島さんが暮らしていた佐賀市高木瀬周辺は大きな被害を免れました。
【牛島英典さん】
「田んぼはみんな水が張ってあった。
だからその焼夷弾は全部不発になった。
焼夷弾が落ちてきている風景は見えなかった。
もう怖くてね、布団の中に潜り込んでいるから」
なんとか一命を取り留めた牛島さん。
しかし、戦争は大切な家族を奪いました。
【牛島英典さん】
「これが唯一の父が出征する前、戦争に行く前に写った写真。
私の父は今でいうミャンマー、昔のビルマに行っていた。
いわゆる歴史的にも有名なインパール作戦」
太平洋戦争中、ミャンマーで亡くなった旧日本軍は13万人を超えるとも言われていて、牛島さんの父・元文さんは現地で亡くなりました。
【牛島英典さん】
「高木瀬から一緒にビルマに入隊した人だったわけ。
佐賀に帰ってきてからすぐ私の家にお悔みにお見えになった。
父の死を聞いた時の母の様子を牛島さんは今でも覚えています。
母がもう泣き崩れて、玄関のそばにあった自転車に取りすがっている。
その姿はもう私の目に焼き付いて、もう耐えられないような風景でした」
牛島さんは遺骨を引き取るため母と一緒に寺へ行きました。しかし箱の中に遺骨はなく、入っていたのは父親の名前が書かれた紙だけでした。
過酷な戦地を生きた父の証が今も戻らないことに、牛島さんは憤りを口にします。
【牛島英典さん】
「南方辺りで戦死されたところの遺骨の箱の中はみんなほとんどそういうふうに、実際に骨は入っていなかったということです。
だから私たちの心の中には、まだ戦争は終わっていない。
結局遺骨が戻ってこそ、我々は戦争は終わったという感じはするけれども、父の遺骨もないのに何が戦争が終わったかというふうに言いたい。
あの頃の飛行機というたら、爆弾持っている」
戦後80年以上が経った今、牛島さんは誇りを持って語り部を務めます。
【牛島英典さん】
「私たちが空襲の話をすると、え、佐賀でも空襲があったんですか、そんな言葉を聞く。
もう我々の時代で終わるんじゃなくて、次々永久的に語り継いで、昔こういう戦争があったんだ、悲惨なことがあったということを語り継いでいってもらいたい」
牛島さんはこれまで友人や子供たちに戦争体験を語ってきましたが遺族の高齢化が深刻なことから、より多くの世代に戦争の悲惨さを伝えたいと思い、語り部での活動を決意したということです。
