和もそんな“賎業”に就くつもりはなく、植村の誘いを断ったのだが、彼は諦めない。熱心な説得をつづけて和の偏見を解き、入所を承諾させたという。

人気職種や不人気職種は、時代によって変わる。たとえば、現在は人気の高い専門職の代表格である弁護士(当時は「代言人」と呼ばれた)は、明治9年(1876)に代言人規則が制定され職業として公認されたが、この頃はまだ“ヤクザ稼業”のイメージが強く、世間には「口八丁で金を取るペテン師のようなもの」と見る人々が多かった。

また、昭和初期から太平洋戦争の頃には「若者たちがなりたい職業ナンバーワン」だった軍人も、少し時代を遡った大正期は不人気職業として敬遠された。オシャレにキメて街を歩くモボやモガからは「坊主頭と軍服が野暮ったい」と笑いものにされたりもする。

戦前の日本にも職業選択の自由はあった。それだけに、世間の人々がその職業に抱くイメージは大事。不人気だった軍人が憧れの職業になったのは、世にくわえて、映画や歌謡曲を上手く使った陸海軍のイメージアップ戦略も大きかった。

トレインド・ナースの普及をはかるにも、それが必要だった。まずは、看病婦の悪いイメージを払拭し、トレインド・ナース(看護婦)は高度な医療を学んだ専門職という新しい認識を世に広めねばならない。

それには、「家老の娘」という和の出自が役に立つ。上流階級の令嬢が看護婦になれば、人々の見る目も変わってくるはず。イメージガール、キャンペーンガールには最適の人材だ。植村にそんな思惑があったから、説得に熱を入れていたのだろう。

“鹿鳴館の花”もかかわった養成所誕生

イギリスでは1860年にナイチンゲール看護学校が設立されて、専門的な看護教育がおこなわれるようになった。欧米各国もこれに倣って続々と看護学校が開校されるようになる。以後、「専門教育を受けたトレインド・ナースは、近代医療の現場に不可欠の存在」という認識が急速に広まっていたという。

大山捨松(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
大山捨松(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

そんな欧米に比べて、日本の近代看護を取りまく状況は著しく遅れている。“鹿鳴館の花”といわれた大山捨松も危機感を抱いていた。