女子にも漢字名を使うのが普通だった貴族や大名は、維新後は「華族」という地位に再編された。
その大半が住むようになった東京には華やかな社交界ができあがり、維新後に力を得た官僚や財界人もそこに加わるようになる。その多くが地方出身の田舎侍や庶民階層の商人が出自だけに、彼らの妻や娘たちもカタカナ名だったが、すぐに華族を真似て漢字名に改めるようになる。見慣れない漢字の名前に、高貴でお洒落な印象があり憧れたようだった。また、名前の下に「〜子」をつけると、さらにハイソ感が増すということで、これも当時は流行ったという。
文明開化でも女が稼ぐのは難しい
和が漢字名を使うようになったのも、そんな上流社会のトレンドに影響されたもの。家老の娘という肩書きは東京でも威力を発揮して、華やかな社交界の催しに参加する機会も多かったようである。
たとえば、明治17年(1884)6月12日には鹿鳴館で華族の夫人たちが開催した慈善バザーに参加したことが記録に残っている。
これは、大蔵省高級官僚の鄭永慶(ていえいけい)が手引きしたものだったという。ふたりが知りあった経緯は不明だが、鄭は和のことを気に入り色々と世話を焼いてくれる。
近松門左衛門の人形浄瑠璃『国姓爺合戦』のモデルとなった武将・鄭成功の末裔で、後に大蔵省を退職して日本初の喫茶店「可否茶館」を経営するようになるのだが、もともと官僚らしくない風変わりな自由人。また、中国語やフランス語、英語などの複数の外国語を使いこなすマルチリンガルで、和も彼の影響で英語を学ぶようになる。
